1組古希文集

追手門学院・高等学部9期生・1組  2011.10.15発行

卒業50周年・古希記念作文集
  「70年歩んできて今思っていることなど」

     (オリジナルの文集に写真を追加掲載しています)


  酒井良之助先生  「 人生収斂の時節 」    

 この度は同窓会にお招きいただき有難うございます。高校9期生の皆様が3年生として過ごされた一年間しかお付き合いがなかったのですが、この拙文を書くとなると、その後のこともふくめて様々な因縁のようなものが絡み合った時だったなと感じます。
 皆様が3年生になられた春から3年生の各クラスは担任を2人にする制度が始まり、7期生を卒業させた後は担任なしで気楽にしていたのが睨まれたのか1組の担任に任命されました。尊敬していた井町先生がそれまで担任をしてこられたクラスですので教育は行き届いており楽は楽だったのですが、僕が担当することになった生徒諸君に申し訳ない気持ちになりました。しかもこれから12期生まで4年間続けて3年1組の担任を仰せつかり、この間の卒業生の方々が何期生であったかの記憶が僕の中では混乱しています。

 今年は皆様が古希を迎えられての同窓会で、まずはお目出度うございますと申し上げます。僕もその古希の時に手にいれたワープロでこの一文を綴っています。10年ほどは酷使したのによくぞ16年間、大した故障もせずにきたなと久振りにキーをたたいては感謝しています。 
 その間に僕も様々な経験をしてきましたが、なんといっても長女(追高16期生)を9年前に乳癌で失い、一昨年に妻をリンパ腫で見送ったことは悲嘆とか喪失感といった言葉では表せられない体験です。長女についてはもっとしてやれることはなかったのかという想いは今なお深いし、妻には一年間の闘病生活に付き合いましたが、12月27日という僕の誕生日に息をひきとったのは何を伝えたかったのだろうかと今も模索を続けています。そして現在の医療の在り方への疑問と生病老死とはなにかを考えている毎日です。
 退職された井町先生からいただいた年賀状に「人生の収斂をする時期になりました」と書かれたのに深い感銘を覚えましたが、それから間もなくお亡くなりになりました。僕もその収斂の時期に来たとは、妻の他界の後の一人暮らしを通してしみじみと感じています。
 電子カルテに現れる症状は分かっても患者という人間を診ず、患者の最期を見届けようとしない最近の医療関係者には人の生死を託することはできません。終末期の臨床医や宗教者などが書かれた生病老死についての書物をよく読んでいますが、宇宙論の話が時々出てきます。そちらの方にも目を通しますが、素人向けの著作でも文化系の老人には中々理解できないのは当然かなと半ば諦めています。 そういう中で今もっとも惹かれているのが良寛和尚の次の言葉です。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
  死ぬ時節には、死ぬがよく候」

 人生には災難に逢う時節もあれば、幸福を喜ぶ時節や前を向いてひたむきに歩く時節など、その人その人なりのテーマをもった時節が巡ってきます。その時節の変わる折目、節目を不惑、知名、耳順などと呼び、古希や米寿も節目の一つです。古希の皆様にとっては これからいかなるテーマの時節が始まるのでしょうか。それは一人一人によって違うでしょう。そして例えば災難に逢う時節にいるとしても災難が襲ってくるとは限りませんが、そこで災難に逢うのはその人の生き方に反省すべきことが伝えられているように思います。 そのことは個人だけでなく、一つの社会や文化にも当てはまることです。現在の日本はバブル崩壊の後、まさに災難に逢うべき時節にあったのであり、今回の大震災が伝えようとしている意味を謙虚に受け取らねばならないのですが、どうも復興という言葉に隠れて震災前と同じ経済成長路線に帰ろうとしているように感じます。犠牲になられた方々ほとんどは災難に逢う時節、死ぬ時節におられなかったのではないかと考えられます。自然というか、宇宙というか、なにかそういうものがまさに何万という方々を不幸に巻き込んでまでして現在の世界人類に警鐘を鳴らしたのが今回の大震災です。不幸に巻き込まれた方々の無念の想いを絶対に無にしてはならないと思います。
 ひるがえって僕自身は人生を収斂する時節に具体的になにをなすべきか、いくつか考えていることはあります。一つは介護付有料老人ホームに入りゆっくりとした自由な時間を持ちたいということ。ついでは病名のつく病気では死なずに、自然死ができないかという願い。癌になれば疼痛緩和の処置だけは所望するが、その他の治療、とくに抗癌剤は拒否するのが長女と妻が身をもって教えてくれた遺言だと考えています。
 かって65キロあった体重がこの2年間で55キロまで急減し、幾つかのクリニックに通うのが日常生活の時間を左右しています。幸いとくに今すぐ本格的な治療が必要な症状は出ていませんが、腰痛には困っています。整形外科や整骨院にかかっていますが少しもよくなる気配がありません。それと時間系列の部分と言語系列での痴呆がかなり進んでいるのではないかと感じています。今も認知症という言葉がすぐに出てこなくて痴呆と書いてしまいました。
 今日の出会いが「今生の別れ」となるかもれないので長々と駄文を弄してしまいました。お読みいただいて有難うございます。皆様の御多幸をお祈りします。

3年学年団の先生方

   山本治之先生 「 七十才を越える人生教訓 」

 永らく、ご無沙汰しております。今皆さんと道でお会いしても、きっとわからずにそのまま通り過ぎてしまうでしょう。50年の歳月は世の中のすべてのものを変化させ、人間も同じように心身共に大きく変わったことでしょう。
 私の記憶の中には、皆さんの高校時代の面影しか残っておりません。今度、お逢いできる機会を作っていただいた幹事の皆さんに厚く御礼申し上げると共に、今から胸の高鳴りを感じております。ただ残念なことは、当日18期生の還暦同窓会と重なり最後までおることが出来ないことを先にお詫びいたします。 さて私は皆さんの先達者として「七十才を越える人生教訓」“カキクケコ”を申し上げたい。

 カ:感謝の心
 キ:希望の心
 ク:工夫の心
 ケ:健康の心
 コ:恋の心

 今、私が一つ一つ説明するより一人一人男も女もゆっくり味わってこれからの人生の指針にしていただければ幸せです。

  1.阿部 公二

 

  2.青山 雅俊 「 最近思うこと 」

 一度失いかけた命、有難いことにまた取り戻せた。
 というのも6年前の12月13日、難病と思われる慢性骨髄性白血病との診断が下された。
 私は白血病は癌細胞が全身に行きわたって数年以内には必ず死に至る不治の病と思っていた。白血病と宣告されて頭の中が真っ白になり、心は動揺、頭のなかで生と死の思いが交錯した。
 追い詰められて何とも言いようのない恐怖に襲われ、おどおどしていた。死の宣告を受けてこの時ばかりは我が人生は終わったと観念し自身の死後のことばかりが頭に浮かび残された人生をどう過ごすべきか真剣に考えた。しかし捨てる神あれば拾う神、有りで 精密検査の結果、初期の白血病であることが判明、5~6ケ月発見が遅れれば急性に転換し命の保証は難しいと医師より告げられた。更に小生にとって幸運だったのは4種ある白血病のなかで唯一、分子標的薬という分子レベルのウイルスをピンポイントで攻撃する特効薬が最近、開発されており白血病でも通常の生活が送れるという話を医師から聞き信じられなかった。
 白血病が発覚してから7年が経過、この間 、薬による副作用で心臓の周辺に多量の水分が滞留、心不全の懸念から循環器病院、近大病院に入院、何とか切り抜ける事が出来、現時点では病状も安定領域で色んな趣味に加えて人との出会いを楽しんでおります。

最近は一日、一日を大切に 今日よりも明日、今月よりも来月、今年より来年、前向きに悔いのない人生を送りたいという思いで  

第1:自身を常日頃から支えてくれている人々に対してもっともっと感謝の気持ちを持つべきだ、家族 特に家内には長い年月どれだけ大変な世話をかけてきたか、少しでも償う為に感謝をこめて手始めに家事を手伝い、これからも徐々に手伝いをひろげ、少しでも喜んでもらえるよう取り組みたい。

第2:家族の絆を深める努力に加えて、気心の知れた夫婦仲間とのふれあい を大切にしたい。

第3:これからの人生を更に楽しく充実したものにする為に、現在取り組んでいる趣味のレベルを工夫により少しでも向上させる。
 現在 趣味としてゴルフ・社交ダンス・野菜作り・油絵 等 楽しんでおりますがこの中で特にゴルフとダンスについては過去の自分のスキルより少しでも向上出来たらどれだけ楽しいか!

 当然、高齢化と共に体力、気力は低下してくると思いますが無理のない範囲で残された人生を楽しみたいと思っております。

  3.浅野功市郎

2011(平成23)年永眠

  4.伊東 正光

  

  5.池田 勝彦 

  

  6.出羽 昭彦  「 同窓会雑感 」

 7月に中野君が鬼籍に入られたと知って只々驚いています。ご遺族様には謹んでお悔やみ申し上げますとともに心からご冥福をお祈りいたします。
 学生時代の君は、人一倍大きな体躯でいかにも頑丈そうであったのに。優秀な人、惜しい人を早くに失ったことを洵に残念に思います。
合掌
 扨て、倉田維晴君には毎回幹事の労を執って頂き、真に有り難く感謝している。10年余り前になるが、僕もクラス同窓会の幹事を二、三度続けたことがあり、日取りの調整、会場探し、住所の確認、案内の発送、会計報告などに奔走したことを思い出す。これは僕の発案であるが、当日の大まかな様子と集合写真を、欠席者にも送ることにした。生憎今回は都合が悪く出席できない人、関東ほか遠方で来難い人、顔を合わせ辛い事情のある人などにも、懐かしんでもらい「次回は行ってみようかな。」と思ってもらえれば幸いだと考えたからである。14年前の同窓会の時も20数名の欠席者宛に、集合写真と当日の様子を書いた手紙を郵送した。4、5日後にお二人から、葉書による礼状を落手した。1通はNさんで、絵葉書に「写真とお便り有り難う。懐かしく拝見しました。」と書かれていた。彼女は、毎回お礼の返事をくださる行き届いた人である。
 驚いたのはもう1通のF君の葉書である。F君は、先の出欠返信はがきに、「僕は、同窓会なるものに興味や関心はない。小学から大学まで出席したことはないし、今後も出席する積りはない。よって欠席。」と書かれていたのである。
 それにしてもF君とは3年間同じクラスでありながら、殆んど口を利いた記憶がない。彼のことを僕は、勉強ばかりの付合い悪い変人と思っていたし、彼からは、僕などエスカレーター組で遊んでばかりいる阿呆な奴と見做されているものと思っていたから、欠席の返信を受け取った際も、「うん、彼らしいな。」と思っただけで別段腹も立たなかった。そんな彼から再び葉書を受けとった僕は、きっと非難・冷笑であろうと思った。「あれほど興味、関心は無いと言うてるのに写真まで寄こすとは馬鹿じゃないの?今後は一切無用に願う。」との文面を予想したが“豈、図らんや”冷やかしなど微塵も無く、労いの言葉とともに非常に丁重に謝意が述べられており、“気遣いされるF君の意外な一面”を知って、とても嬉しく思ったことを思い出す。
 そして、もし僕が逆の立場であったなら、このお二人のように幹事に礼状を出す“心配り”ができただろうかと自問したとき、暫し忸怩たる思いに駆られたことも思い出す。
 それにしても、幹事をしていて残念なのは、出欠の返事もくれない人達である。欠席でも良い、近況など書かなくても良い、せめて出欠の返事だけは返すのが礼儀ではないかと思うのだが如何であろうか。

  7.稲田 孝久

  8.井上 敏男 「 山行き 」

 立呑み「毎日」を開店して早や30年が過ぎました。その間、大病する事なく無事に過ごせたのもある一人のお客さんの言葉でした。「ご主人、休日は何して過ごしてるんですか?」と聞かれた。
「家でだらだらして、酒を呑んでます。」「それは実に健康に悪いです。私と一緒に山へ行きましょう」しぶる私から強引に約束をとりつけ、その週の日曜日、初めて芦屋川からロック・ガーデンを登り、六甲山頂を目指しました。何とその行程のきつい事。途中で何度も立ち止まりようやく3時間ほどかけて頂上にたどり着きました。この達成感、何と気持ちの良い事か。先ほどまでの疲れもどこへやら。
 これがきっかけで、この30年間の山行きが始まりました。近畿の山々、北アルプス、南アルプスと毎週日曜日に、店のお客さん10人ほどとの山行きが楽しく、現在に至っております。これもお客さんのお陰です。
 また人生、人のつながりがいかに楽しいものか。高校3年間一緒だった1組の友達の顔を浮かべて昔の思い出に浸っています。 健康第一、皆さんも近くの里山を散策して足腰を鍛えて下さい。これからも頑張って楽しい人生を。

  9.岡  昭

   <連絡先不明>

  10.加茂野絋三  「 出逢いが・・・ 」 

 私は幼い頃から旅行が好きでした。旅行といっても子供なので、電車に乗ったり、母の実家へ汽車で行く程度の小旅行ですけど。そんな時、高校の修学旅行は東北地方で、当時はまだ不便でなかなか行けそうもないところだったので、とても印象に残っています。
 奥入瀬の渓流に沿って観光バスが走った時は、とても爽やかで、しかも台風の後だったので、樹木が川に倒れていた景色は、自然だなあと感じたのを覚えています。バスのガイドさんが「北上川エレジー」という叙情歌を教えてくださったので、一生懸命覚えたら、2,3年たって「北上夜曲」という曲名でヒットしていました。
 十和田湖では、モーターボートを運転して対岸まで競争したりして素朴な湖を満喫しました(あの頃、モーターボートは誰でも自由に運転できましたが)。人に景色に歌にもよい出会いがあった旅行でした。

 61才で引退して小学校へボランティアに行くようになって、8年が過ぎました。1年2年3年の子供でも人格があり個性があり、しっかりと対応しないといけないなあと心掛けています。中学生、高校生になっても道で逢えば声をかけてくれ、近況や部活のことなどを話してくれて、楽しいひと時を過ごせます。
 私は家内とともに45年。勤務や親兄弟の事情で7回引っ越しをしました。「至るところ青山あり」。行く先々で良い出逢いがあったので、楽しく幸せに暮らしてこれたのだなと感じるようになりました。
 私たちもそろそろ黄昏どきに入って、夜のトバリが下りるのが近づいてますね。その日まではまた、良い出逢いがあるのを楽しみに、毎日を送っているこの頃です。

  11.海部 孝治

  12.片岡健太郎

  13.河井 昭治   「 自分史 」

子供達の提案に沿って、自分がどのような人生を歩んで来たかを記録することにした。云ってみれば一種の遺言ということだろうか。子供達の役に立つかどうか判らないが、時が来たら読んでもらおうと思う。

【中国在留時代】

 昭和17年5月20日、中国四川省の漢口と云う町で生まれる。母の名は光子、父の名は忠政(?)。母は大阪生まれでミッションスクールを卒業後、証券会社勤務、父は滋賀県生まれで商船乗務員だったそうだ。母が証券会社で働いていた当時、日米戦争が勃発して日本軍が中国に進出し始めた頃、日本の民間人の間で大陸に職を求める機運が高まり、母と友人達が中国四川省武漢市の漢口に渡って日本軍の駐留部隊向けに食用ソースを供給する工場を設立した。進出当時の中国は未だ平穏で、ソースの売り上げも順調に拡大し、母達も貴族のような生活を楽しめたらしい。母は優秀な競走馬を所有し、春紅姉(シュン・クーニャン)と云う中国人メイドを雇い、女性経営者として名を上げたという。生まれたばかりの乳幼児であった自分は、中国人のメイドに育てられ可愛がられていたということだ。
 しかし、日米間で太平洋戦争が勃発するや戦況はたちまち悪化し、日本軍の執拗な抵抗にもかかわらず、昭和20年8月、広島、長崎への原爆投下を以て日本は敗戦国となり、中国在留日本人は日本に引き揚げることになった。日本へ引き揚げるまでの数ヶ月は、漢口から上海までの貨物列車での移動や、上海の租界地での抑留生活などで、大人達は苦しい生活を余儀なくされたらしいが、子供達は上海の街中に繰り出して、屈託なく遊んでいたらしい。また、上海から日本への移動はドロ舟のような小型の貨物船だったらしいが、無事、博多港に辿り着き、そこから黒煙を噴き上げる機関車が牽引する超満員列車で大阪へ帰還した。自分はそのとき数え年の4歳ということになる。

【大阪での生活】

 日本に引き揚げた後、暫くの間、母の知り合いの紹介で風呂屋の二階に仮住まいさせてもらったが、その後、生野区の今里という地所に建て屋を借り、アミノ酸醤油の製造販売を開始。戦後の食糧難の時代であり、これが暫くは好調で、工場を持ち雇い人を採用して商売を拡張する。しかしこの商売は、キッコーマン等、旧来のブランドが復活するや市場の片隅に追いやられ、母は引き続き、キャラメルの製造や豆板菓子、生姜板、ベビードーナツ等々、様々な食品や菓子の製造販売を試み、生計を維持するために必死で働き、幼い自分を小学校に通わせてくれた。自分も家業を手伝いながら通学したが、苦労したという記憶はさほど無く、近所の子供仲間と街中を走り回って遊んでいたことを思い出すと懐かしい。
 小学校は近鉄沿線の今里と布施の間に在った少路小学校に通い、中学校は大阪市内の夕陽丘中学に越境入学させてもらった。終戦後、日本経済はどん底で喘いでいたが、復興はたちまちの内に進み、焼け野原であった大阪市街には、アッと云う間にビルが立ち並び、交通機関や商業施設が整備された。大人たちは、それでも生活の苦労が耐えなかったと思うが、子供達にとっては色んな意味で変化が楽しめて、退屈しない時代でもあった。学校での勉強も、楽しいと思うことが多かった。中学三年の頃、大阪市内の松屋町筋に在るお菓子問屋に製品を配達する仕事を手伝わされたが、駄賃をもらえるので結構楽しいアルバイトだった。
 高等学校は、目の前に大阪城が聳える、追手門学院という学校に通っていた。この学校はお坊ちゃん学校と呼ばれていたが、不良も結構混じっていた学校で子供らしくない遊びに走る先輩も多かった。要するに金持ちのボンボン学校であった。この学校を選んだ理由は、「入学金授業料無料の特待生として採用してくれたからだ」と母は言っていた。別に貧乏していた訳ではなかったが、貧しい生活苦を身にしみて味わった人間は、無料という言葉の響きに踊らされやすいようだ。今想えば、高校生活も楽しく有意義であったと思っている。

【大学での生活】

 高等学校を卒業した後、京都大学の理学部を目指して受験したが、僅かに英語の点数が不足して入学できず、京都工芸繊維大学に入った。別に繊維関係に興味を持っていた訳ではないが、国立であり入学金や授業料が免除してもらえたし、学生寮にも無料で入れてもらえたからである。大学に入学してちょうど一年後に母の胃潰瘍が悪化して、激しく喀血して亡くなった。
 大学寮での生活は、僅かな奨学金による爪に火を灯すような生活であったが知り合った寮生達との共同生活は、まあまあ楽しい生活だった。当時、母が終戦後の食料難の時代に面倒を見ていた、遠い親戚でヤンキーかぶれの山本守男という叔父さんが「昭ちゃんのお母さんに助けてもらったお返しだよ」と云うことで、毎月一万円の仕送りをしてくれたので、随分助かった。しかし、このお金は、殆ど寮の仲間たちとの飲み代に消えた。なんとも助け甲斐のない悪ガキだったのだ。在学中は寮生の実家のお母さんからも、随分お世話になった。

【大学卒業後の歩み】

 大学卒業を控えて就職がひとつの課題になったが、これも会社の方から積極的なアプローチが有り、結構良い条件で就職することになった。京都第一科学(現在はアークレイ)という島津製作所の下請け企業で、光学結晶を作っていた会社である。入社したときは、パートや賄いさんも加えてたった7人の会社であったが、入社後、ビスマス、テルル、アンチモン等を ベースとする赤外線検出器の開発に携わり、赤外線分光光度計の商品化に貢献できた。(2010年4月29日執筆)

  14.川畑 敏郎

   永眠(<2004(平成16)年11月>

  15.北山 勝英

  16.倉田 維晴 「 私をつくった先生方 」

   (長文につき、最後尾に収録)

  17.倉田 佳明 「 還暦・定年退職後の我が人生 」

 皆様方は、さぞ楽しい高校時代を語られると思いますが、私は卒業後、既に50年を経過しており、告白記と言ってもいいものだろうか。組替えを2回経験していること、高等学部より入学をしていること、積極性欠如、これといった得意分野もなく、真の友人が出来なかったことは残念なことであった。倉田君が2名おり、維晴君は勉学・クラブ活動・その他活動には際だって目立った存在でありました。もう一方の佳明君は平々凡々の人物でありました。
 しかしながら、最近居酒屋「毎日」の井上君曰く「倉田よ、お前とクラスの成績の最下位争いしたものだな!」の一言、クラス同窓会において、多士済々の同期の桜がおられることで、追手門高校を卒業して本当に良かったと思う今日この頃です。

 恩師の井町尭生の黒板の柔らかな英語、ユーモアは今も忘れられません。先生の英語の葉書を添付しておきました。今は亡き先生を偲んで下さい。酒井先生はいつまでもお元気で、生徒である私よりお若く見えるのは、嬉しくもあり、悔しくもあります。
 人生は、物質的な保証さえあれば幸せと言うわけにはいきません。社会に自分の居場所を確保出来て、はじめて満ち足りた生活ができるのではないでしょうか。妻を亡くして5年が経過いたしました。その後の生き方が大きくかわりました。高校の校訓「質実剛健」即ち、小さな生き方の一方、健康で、元気良く人様とおつき合いできるよう心がけています。大学の「Mastery For Service」の精神のもと、何か皆様に役にたつことがないかを模索しております。

その一 長男夫婦・孫との同居

・他人に依存しないで自分の才覚で生きる。 出来ることは出来るだけ自分で行う様、心がけております。
・「親しき仲にも礼儀あり」同居してつくづくこの必要性を痛感しています。
 (妻にはよく注文をつけていたことに、今頃反省しております)・当たり前のことですが、食事には一切文句をいわず、感謝していただく。

その二 地域活動への参加

  現役時代は地域の自治会については、妻にまかせっきりで全く無頓着でありました。今の所に約40年住んでおり、なにかのお役にたてばと思い副会長兼書記をひきうけ2年余が経過いたしました。書記というのが厄介もので、パソコンは右手・指一本、ひらがな打ちで悪戦苦闘しています。幸い長男の嫁が手伝ってくれて助かっております。毎月開催の会議の準備・報告、夏・冬の子ども向けの行事、市役所等との交渉、地域団体会議への出席、公園清掃、ゴルフコンペの幹事等、地域のことが最近になって分かってきました。又、認知症防止の一環となっているのではないでしょうか。

その三 P・P・Kを願望して

 自宅の近くにフィットネスクラブがあり、友達に誘われ入会して約6年となりました。週2~3回通っております。女性の方が約8割を占めており「大阪のおばさんは元気」をつくづく感じ、パワーをもらい片隅で頑張っています。 目標をやりとげる、目標以上のことはやらないことが、高齢者には必要ではないでしょうか。

その四 人様とのお付き合い

・健康維持のため
 異業種交流会と称して、約30年続いているゴルフ・飲み会、200回を越える会社の現役・OBゴルフコンペ、自治会、大学クラブOB会等約50名の方々のゴルフ仲間に恵まれていることは幸せなことです。ゴルフ仲間から「除夜の鐘の男」と呼ばれています。いつも108つを叩いており、一向に上達いたしません。いつまでゴルフが出来るかわかりませんが、今後とも楽しんでいきたいと思います。
・脳活性化のため
自治会館にて、健康麻雀会を月3回実施しております。地域住民の方々とのコミニュケーションの場であり、手と頭を使い、暇つぶしに丁度良い娯楽ではないでしょうか。

高校2年、井町先生から暑中見舞いの返事を頂く


 大きな表題のわりに中身は、日常の生活を網羅しただけのものです。日本の政治、経済は閉塞感が漂っている状況です。私共、何もない時代から物が満ち溢れる時代を経験いたしました。「兆円」の単位が、国の予算委員会、新聞紙上で飛び交っています。大きな国に成りすぎたのではないでしょうか。一方、自然災害、気候の不順化等厳しい世の中となりました。私達の子ども・孫達が安心と希望を持てる国になる様、私達も考えていかなければならないと思う今日この頃です。

  18.黒田 稔

   <連絡先不明 2011.7月確認>

  19.小山 勝

   永眠(<1998(平成10)年7月>

  20.多田 勝彦 「 私の人生観 」

 私の人生に於いて、古城“大阪城”から受けた印象・学んだ栄枯盛衰の歴史の事実から、「時代は常に変化する。変化に迅速に対応できるもののみ存続する。ダーウィンの進化論も同様である」と考え影響を受けている。私は橋梁メーカーである川田工業㈱に入社し、46年間勤務し、この15年間グループ会社の経営者の一員として業務に励んでいる。46年間には平穏無事、順風満帆な時代は多くはなかった。オイルショックやバブル崩壊等の景気変動は会社経営を直撃する。その都度、海外市場に、新規事業に展開対応し、企業成長を図ってきた。これからも益々企業環境は厳しい時代が続くと思っている。グループ社員2500名の安定雇用確保を目指し、時代変化を正確に判断したいと思っている。
 最近の施工例を2件紹介したい“コンクリートから人へ”でターゲットにされた“八ッ場やんばダム”でテレビ報道された場面の“八ッ場ダム湖面2号橋”は当社の単独施工である(今年3月開通)。東京都墨田区に634メートルの高さのスカイツリーの鋼構造部7000トン他は当社グループの製作である。目立たない会社であるが、地図に残る仕事をしています。
 最後に家族を紹介します。長男・長女に恵まれ孫3人です。長男も米国より帰国し、三家族が京浜東北線で繋がっております。
1組の皆様の御健康と御繁栄を祈念申し上げます。

  21.平 鋼治 「 自然は美しい? 」

自然は美しい、花、木、夕日、青空、・・ そのひとつひとつが美しい 
 だが、美しい自然が自然の本当の姿なんだろうか?
 今回の東北地方を襲った地震、津波を思うと自然が美しいなんていう思いは、これっぽっちも起こらない。
 地震の破壊力、そして、終わりのない余震、もういい加減にして欲しいと思ったし、特に、津波の酷さは、言葉にならない。 人間が営々と築き上げてきた生活空間を根こそぎ破壊した。 
家屋、住宅、建物、田園、園芸、送電線、上下水道、ガス、道路、橋梁、港湾施設、工場、自動車、船舶、あらゆる家財道具 、
そして、人間の生命も、思い出も、なにもかも。 依然、数えきれない行方不明の人々もいる。 しかも、この被害は、地域を特定できないほどに多くの地域を巻き込んだ 。自然のこの暴挙は、地震、津波に限らず、まだまだある。
台風、竜巻、山崩れ、火山の噴火、洪水、干ばつ、・・ 、枚挙に暇ない。 
 自然の本当の姿は、人間を寄せ付けない、というのが本当の姿でないか? と思ってしまう。 

そう思えば、あの美しくも可憐な花や心和む緑の木々、心地よい風、 すべてを受け入れる穏やかな海は、獰猛で過酷な自然の人間に対する謝罪とも思われる。 
 決して、こころ許すことができないもの、それが、自然の本当の姿かも知れない。 
 去年の冬だったか、ある雑誌に、北海道の冬の自然の描写があった。美しい文章だった。
 何故か?その時はわからなかったが、その文章のバックボーンは、自然とは、「人を拒む峻烈がある」という心意気の文章でなかったか、と今は思う。
 自然の美しさ、それは、残酷な自然の人間に対する謝罪でないのか?
 2011年の古稀は、そんな人間と自然の関係を考えさせられる年となりました。

  22.竹内 義宣 「 古希を迎えるにあたって 」

◎古希の語源について調べてみると、数え年70歳を祝う記念日の事で、中国(唐)の詩人であった杜甫の「人生七十古来稀なり」という語句から来たそうです。当時の中国(日本でも)人生70年も生きる人は稀だったからだと思います。もともと長寿の祝い事でしたが、平均寿命も延びているので、今後も健康でいられるようにという意味と今後の喜寿(77才)・傘寿(80才)・米寿(88才)・卒寿(90才)・白寿(99才)・百寿への生き方を考える機会にしなさいという示唆と受け止めれば良いと考えます。
 小生も当面は、平均寿命までの目標やスケジュールを考えることにしたいと思います。

◎70年を振り返って、一言で言うと大きな変節もなく平平凡凡と暮らして来たなという感想です。父母の逝去や自身65歳のときに脊柱管狭窄症の手術をしたことが大きな出来事でもちろん結婚・子どもの誕生(2男1女)孫(3人)等はありますが・・・。
 簡単に経歴を記しますと、昭和40年大学卒業後、機械メーカー入社そして定年退職後100%子会社へ、その後関連協力会社に移り、現在そこの顧問で勤務中です。

◎近況報告としては、結構忙しく生活しております。(典型的な貧乏暇なし状態です)会社勤務・男性合唱団・グランドゴルフ・地区老人会・公民館活動・陶芸同好会そして里山を守る会や各種会合やOB会の幹事等々及び家ではメダカの飼育や花や植木の世話をしており支離滅裂の状態の生活をしております。

◎最近特に感じることは、健康の大切さは勿論のことですが、人や地域の縁には驚かされることが多いということです。意外な時ところでの出会いや縁がありましたので、お付き合いや出会いは大切にしないといけないという思いを強く感じております。

もう二度とお会いしないと思っていた人と何十年もたって、ある会合で活動を一緒にすることになったとか枚挙にいとまがありません。
 また時々追手門学院の前を通るにつけ、いろいろなことが思い出されることが多くなりました.酒井先生はお幾つになられたのだろうか、井町先生はなくなられてどれ位経ったのだろうか、同級生はどのような生活を過ごしているのだろうかということです。

以上が古希を迎えるにあたっての、非文学的・非論理的・非ロマン的な散漫な感想ですが、記載させていただきました。
 ◎最後になりましたが、今回の古希記念同窓会は意義のあることで、発案から企画運営までしていただいた幹事の方々には感謝申し上げます。

  23.竹田 泰三 「 雑感 」

 古希を迎えた記念として、「私の高校時代&人生」をテーマで文集を作ろうという企画は大いに賛成でした。しかし、いざ書こうと思うと、私の人生の中で「高校時代」の思い出がことの外、希薄であることに驚きました。じっと目をつぶると、教室の光景や友達の顔、安保闘争だったでしょうか、学園紛争のはしりなど、思い出すことはあるのですが、高校時代としてまとまった思いがどうしても沸いてこないのです。受験時代であったためでしょうか、また、多感な青春時代にもかかわらず、恋愛をすることもなければ失恋もしなかったためでしょうか? そんなわけで、高校時代は置いておとくとして、高校を卒業した以降の私の簡単な履歴を雑感として書いてみようと思います。

大学生時代

 早稲田の理工学部機械科を中途退学した後、今から思えばどちらが向いていたか分かりませんが、大きく方向転換し、京大医学部に転校しました。追高の同級生とは、教養学部時代は、キャンプに行ったり、大阪周辺で飲み会を開いたりで交流がありました。先日Mailで知った中野君の訃報はショックです。京都の私の下宿で、遅くまで唯物弁証法を議論したり、阪大で彼のオーケストラの練習を遅くまでつきあって待っていたことを思い出します。確か、梅田の第一生命ビルの電光板のテロップでしたか、ケネディ大統領が暗殺されたのを知り、驚いたのも彼と一緒であったと記憶しています。こちらに帰ってくれば会えると思っていたのに残念です。
 本科に進むとさすがに忙しくなって、京都に居を構えていたせいもあり、同級生と会うことも少なくなり、疎遠になりました。医学の勉強は、私の得意分野の対極にありました。まず、解剖学で、すでにknock out状態です。例えば、骨学では、骨の穴はもちろんのこと、骨面のスジやヘッコミにはすべて名前がついていて、みんな覚えなければなりません。よく受験勉強で、世界史は記憶量が多いなどと言われますが、解剖学の記憶量と比べれば、屁でもないと思われました。私には向いていないと痛感し、当然の結果、グレてしまいました。そうなると行き着くところは一つ、医学の勉強以外に熱を上げるようになりました。ちょうどその頃、1年先輩が自動車部を作るから協力してくれないかと誘われました。これが大きな間違いのもとで、人里離れた京都の山奥を夜々走ることになり、勉学からますます遠ざかることになります。結局、大学時代につけたスキルと言えば、ラリーでの自動車操縦技術と言うことになりました。
 ここまで書くと、それじゃ暴走族じゃんと言うことになりますが、いい訳をちょっと。自動車部のその後は、オイルショックであえなく廃部、廃部記念で集まった元部員はトータル9人でした。これらの内、5人が教職に就き、その後、私も教鞭を執ることになりました。「おお恐!」と思われるかもしれません。確かに、暴走族まがいのことをしていたことには申し開きはできませんが、その後、おとなしく学究生活に入ったことより、決して突っ張っていたのではないことがお分かりかと思います。
 卒業が迫ってきた頃、皆様もよく知っている学園紛争の嵐が吹いてきました。元々、この学園紛争は、医学部が持つ体質の古さが原因で、医学部の体質改善(世に言う、反体制)と無給医の根絶が主要テーマでした。この問題は、私たちが入学したときより、ことあるごとに先輩たちから議論され、すり込まれてきましたので、当然賛成と言うことで、一科目を残して卒業試験はボイコットとなりました。その結果は、当然留年となりますが、早朝5時に、選挙でスト突入が決定したときは、勇んで竹棒を持ち、東一条をひとしきり練り歩きました。熱い一日でした。しかし、その後、医学部より立ち上がった学園紛争は全学共闘となり、体質を変えていくようになります。医学部としては入試阻止も反対でした。恐ろしいもので、社会の流れは医学部の思いを超えて、意図せぬ方向に流れてゆきます。結局、最初にストに突入した医学部から先に離反していくことになりますが、無給のインターン制度と無給の副手制度は廃止され、研修医制度が発足することになり、一応の成果は得られたことになりました。

 大学卒業後は、先述した研修医を終えると、2年半の市中病院勤めを除いては、大学勤めで始まり、大学勤めで終わることになりました。勤務先は、京大、滋賀医大、高知医大(高知大学に編入)と渡り歩きました。総じて、約40年程になりますが、この期間を総括すると学究生活と言うことになります。先ほどの学生時代の話からすると、何の心変わりかと思われますが、私もよく分かりません。昔の仲間に会うと、あまり勉強しなかったから、つけを払わされているのだと言われますが、それにしては帳尻が合わない気もします。今振り返ると、そこそこの業績を残すことができましたし、そこそこ引用もされると言うことで、この期間を表現するとすれば、達成感という言葉以外にないような気がします。

大学勤務

 40年も教職に就くと、教育者としては色々思うことがあります。学生の気質が大きく変わったと言うか劣化してきました。この変化は、年々というのではなく、或る年を境にして起こっているので、おそらく教育制度の変化が大きく関わっているように思えます。問題点は色々ありますが、サイエンスとしての基礎知識の欠如と一般教養の欠如が顕著です。大学にもその流れが押し寄せてきて、退職数年前より入学2年間の基礎教養部門の授業がなくなりました。また、専門課程でも、国家試験用に授業内容が変えられ、予備校化する傾向が出てきました。私は、心ならずも、廃止された教養課程の代わりの講義として、「症候と病態、その科学的根拠」の一部を担当させられ、数年間は入学一年生も教えることになりました。ところが、退職の前年の講義で、奇妙な光景を目にしました。学生が、授業時間が始まった後にも入室してくる、ある者は部屋を出て行くかと思うとまた帰ってくるという具合です。さすが授業中に携帯を使っている者はいませんでしたが、このような姿は、以前では見られない傾向です。医学部長の話では、最近の学生は切れやすいので注意してくださいとのことでしたが、将来が危惧されます。
 学生時代の話で、学園紛争で研修制度が導入されたことを述べましたが、なぜか、悪名高き卒後研修制度の制度設計に関わらしていただきました(加担したというのが、正確でしょうか)。社会を混乱に陥れた過去の学園紛争の落とし前をつけるのかと参加していましたが、いろいろなことを勉強させていただきました。本来、このような公的機関で行う制度設計は、善意の下で行われるもので、我々も最善を尽くしました。しかし、制度は利害関係で数カ所をいじるとこうも悪名高い制度が出来上がることを実感として体験させられました。

退職後

 退職後は、西宮市立中央病院で医務顧問として週三回耳鼻科の診療をしています。臨床面の知識を少しは役立てたいと考えて働いています。仕事はこれだけにしようと考えていましたが、或る高名な先生から、医療専門学校の講師をしないかと言われて、お引き受けしています。退職しているにもかかわらず、学会の仕事、海外誌の英文論文の査読など、結構、締め切りに追われる仕事をしていて、老体にはきついです。最近は、日本専門医制度評価・認定機構のお役目も拝命することになり更にきつくなりそうです。

近況

 つい最近、スペイン、ポルトガルを旅行してきました。本来、国際学会に出席する予定でしたが、9月11日にテロがあるかもしれないとのことで、3ヶ月前、開催日が1週間ずれてしまいました。すでに、航空券を予約していましたので、キャンセル料も高く、学会出席をあきらめて観光にしました。スペインは、日本人が旅行するのは危険だとの話がありますが、その心配はないようです。高速道路も、マドリッドを離れると車は少なく、整備されていました。

退職したら、アメリカ西部を旅行しようと言うのが夫婦の夢でした。アメリカの旅行のイロハは、留学経験で精通していますので、一ヶ月、いや少なくとも3週間をかけてアメリカの大自然を堪能したいと考えていました。しかし、今の現状では夢を果たせないのではないかと考える今日この頃です。

  24.竹野 晃

    左端は、竹野君の奥さんと子どもさん(1984年)

  25.巽 寿一

  

  26.中野儀人 

   永眠<2011(平成23)年7月>

  中野君のこと(文責・倉田維晴)

  中野君の奥様(ご両人の結婚披露宴の司会を倉田がさせていただきました)より同窓会の案内の返信が寄せられました。文面は「ごぶさたいたしております。中野儀人はこの7月6日に永眠いたしました。皆様にお目にかかることなく、中野内科クリニックを開業して5年、亡くなる一週間前まで診察いたしておりました。皆様によろしくお伝え下さい」とありました。

 彼は実に多様な道筋を歩んだ人生でした。大阪大学の工学部・電気工学科に入学、卒業して、大阪大学大学院基礎工学研究科・生物工学専攻に進む。当時全共闘運動の真っ最中で、大阪大学でも「ベトナム反戦・権力者の大学から人民の大学へ」をスローガンに掲げて闘われていた。倉田は理学部で、中野君は基礎工学部で大学院生の中心メンバーとして闘った。

泉南市の白井病院の内科医の頃の中野君

彼は修士課程卒業後その研究室の教官で助手をしておられた奥様と結婚し、スエーデンの医療機器を輸入販売する会社に就職した。大学医学部との共同研究の中で自分もドクター資格を取る必要を感じ、35才ごろ会社をやめ、医学部に学部入学し、40才を過ぎて医師免許を取った。その後阪南市民病院など泉南地区の大病院の内科の勤務医になり、5年前に和泉中央駅近くに念願の「中野内科クリニック」を開業した。
 その頃中野君はかなり悪化した状態の大腸がんが見つかり、手術した(4年前のクラスの同窓会の時に彼は入院手術中だった)。後の経過は良好だったが、その後身体のあちこちに転移してこの7月に亡くなったという経過です。
 49日法要の前日に、高3の夏、傍士・藤原君と泊めていただいた農家の豪邸造りのご自宅に51年ぶりに訪れました。翌日の法要のために飾り付けられた祭壇にお参りさせていただきました。子供さんは結婚しておられる娘さんと息子さんがおられ、4才と2才の男のお孫さんもおられます。京大の物理工学を卒業された息子さんの出身高校が、内藤さんのご主人が学校長をされていた学校で、校長訓話を聞かれていて、そのご縁を知って「人間はつながってるんやなあ」と息子さんも実感された次第です。

文集に載せる写真と文章をお借りしてきましたので、今回、載せさせていただきます。

 「 老人医療と安楽死 」

(泉州地区の認知症などの老人精神科医療に取り組む病院の医師・看護師で<老人医療と安楽死>という重いテーマで、意見交換をしたまとめの冊子の巻頭言として中野君が50才代に書いた文章です。)

 当病院へ入院する患者は大きく分けて三つに分類される。第1は臨床的には、重篤な疾患が認められないが、いくつかの慢性疾患と、身体の諸機能の老化のために、家族による在宅介護が不可能(時間的、人的、経済的などにより)となった患者である。第2は、在宅看護でも、他の病院においても手の施しようもなくなった末期状態の患者である。第3は、当病院の特質により、老若問わず、精神疾患、痴呆を持った患者である。第1の患者は、幸い、病状が軽快して在宅介護が可能となっても、家族の拒否のため、退院することはほとんどない。第2の患者は、老齢という基盤のために、回復することはほとんどなく、死亡することが多い。第3の患者は、精神疾患という特質のために長期入院となり、死亡するまで入院していることが多い。一般の病院では、病気に罹患し入院する。運の悪い難治性疾患の場合は、死亡するが、多くは、軽快または回復して、本人にも、家族にも感謝されて退院する。本院では、重篤で入院した患者では、勿論のこと、元気で入院しても、老齢というハンディのために、急に悪化し、疾患が軽快することは少ない。このように考えれば、私たちは初めから敗戦投手であることに運命づけられている。本院に入院して来る患者は、痴呆や、寝たきり、尿・便失禁、さらには意識障害の状態がある。このような人たちを、延命させるために努力しても、一体、誰が喜ぶのだろうか?「医師法」の中に、「医療に携わるものは、その時代において可能な限りの医療を施すべき」とある。最大の事を行っておけば、医療ミスは起こらない。その時は“不可抗力”と言われる。現代医学では、何もしなければ当然心停止している患者で、何日も心臓を動かすことができる。このようなことを為すべきではないという尺度はないし、尺度を作るべきか否かも、今議論の真最中である。しかし現実に携わる私は、何か物差しがないものだろうかと考えている。それは

①家族が希望する限り、②患者本人が希望する限り、という条件がある。しかし、本院へ入院してきた時より、家族にとっては、棄老感覚が強く、厄介払い的感覚が強い。また、本人にとっては、痴呆が強く、見当識が全くないことが多い。それでは①も②も当てはまらぬ。私は、これに対して、どのように解決してきたか述べてみたい。

 家族に見放された患者にとって、私たちが家族の代わりとなってやらねば仕方がない。また痴呆あり、失見当識があっても、自分が本人となったように、“生ある人間”としてできる限り苦痛のない、楽なようになりたいと思う。要するに、患者に対して、彼らを私たちの父母と考えて、何を、どこまでしてあげられるか考えるしかない。私たちが努力していることに対して、感謝する人は私たちでしかない。

  27.中村 光憲

   <連絡先不明 2011.7月>

  28.西 真吾 「 近況報告 」

 未だに、28人の小さな製造業をやっています。昨今の経済状況で先の見えない中、自分の意思でない〜収斂〜を強いられると思いますが、対応は出来るかと思っています。
 健康面では宿題を課されていまして、元気でやっていますが、意識するものがあります。
 医者に聞くと、「たいしたことはない」、なんですが・・・

  29.西村 繁

          2012(平成24)年8月永眠

  30.畑埜武彦   「 最近、思うこと 」

 思い出は深く、多感な追高時代を過ごしてもう五十年が経ちました。もう1ヶ月で古希を迎えます。今までに大病を患うこともなく、健康に恵まれたことに日々感謝しております。
 最近、折に触れて思うことがあります。もうそろそろ両肩の荷を少しづつ減らして、身も心も軽くより自由に動けるように過ごしたいし、また過ごさなければならないと自分自身に言い聞かせるように成りました。しかし凡人の私には目に見えるものはもとより、見えないものですらなかなか捨てきれないのが常です。
 現在も診療の領域は限っておりますが(乳腺外科)、なお現役で医師として仕事をさせていただいております。
 まだ、自分が生かされる場があることに感謝し、日々努めて居ります。微力ではありますが病める人達のお役に立てればと快く頑張っております。
 “老い支度”もそろそろ考えなければと思う年齢になりましたが、これからも“年齢相応に健康で、人生をより楽しく生きる“をモットーに日々を送りたいと思っております。感謝。(はたの)

  31.福井 隆彦

  32.藤井 毅

  33.藤原 顕輔

  34.傍士 研一 「 同窓会幹事宛短信 近況 」

 私の方は、4年前より、大阪市東住吉区で独居で頑張っていました実母を引き取り同居を始めました。まもなく介護症状が始まり、在宅介護を続けて現在に至っています。現在、95歳で要介護4の認定を受けております。少しずつでありますが、弱って(ぼけて)いく母親を看取っていくのは、つらいものがあります。
 2003年(平成15年)末に、大卒後に即入社したAIU保険会社を定年退社。その後も、在勤中より委嘱されていた、大阪国際大学・国際文化学科での非常勤講師(担当:「保険論」・「ファイナンシャル・プランニング」)を続けておりましたが、介護に専念する意味もあり、2009年(平成21年)に大学を止めました。
 毎日の介護は、家内と分担していますが、夜間の部は小生の担当。3時間おきに、母親の症状をチェック見回りをやっております。
時折の、母親の「デイサービス」や「ショート・ステイ」参加の時が、我々の休息時間です。
そろそろ「在宅介護」の限界とも思っていますが、中々「次の道」が見えてきません。
 15日には、再会を楽しみにしおります。「中野君を偲ぶ会」が開催できたらいいですね。

  35.松居    「 高校時代、その後 」

 先日、「懐かしのメロディー」(NHK)で「北上夜曲」が歌われていた。この歌は修学旅行の時に、十和田湖に向かったバスの中でガイドさんが教えてくれ、何度も皆んなで合唱した歌だった。暫くして曲名が「北上川エレジー」から「北上夜曲」に、更にメロディーも原曲からかなり変更されたが、マヒナスターズが歌って大ヒットした。文集の話とテレビ放送が相俟って、しばし懐かしい当時の想い出に浸っていた。

 さて、私の高校生活を振り返ってみると、大きな想い出は2つ。

 1つはクラス変え。入学時は2組、2学期からは5組。ここで参ったのは2組ではなかった授業。親父には内緒で、いずれ元に戻ることを母親に約束して習字道具を買って貰った。2年生からは理由も分からないまま1組になったが、複数のクラスを経験してより多くのクラスメート、或いは先生方と出会えた。

    2008年 学年同窓会にて

 2つ目はクラブ部活動。毎日放課後になると狭い放送室に駆け込み、昼休みに流す番組や、時にはコンクールに出す番組の制作手伝いなど、先輩後輩が一緒になって和気合いあいと過ごせる雰囲気の中で、全ての作業が全く苦にならないほど充実した毎日を送っていたこと。また番組の制作や機械操作を通じて階層構造(ハイアラキー)的な考え方を身に付けたのも、後になって大いに役立った。
 大学受験を控えた頃、今は亡き中野(儀)君から「お前は将来何をしたいんや?」と聞かれ、「コンピューターの仕事をしたい」と答えると、「原理も分からんで、そんなことしても面白うないやろ」と反論されたことがあった。「利用技術も技術の内やで」と答えたのを今でも覚えている。同窓会の席で会うことが出来れば、もう一度この話をしたいと思っていたが、残念ながら不可能になった。心よりご冥福を祈りたい。

 大学を卒業する昭和40年前後の日本経済は、いざなぎ景気の始まる前で決して良いものではなかったが、ゼミの教授の強い勧めもあり総合商社に入社し、今で云うシステム部門に配属された。以降38年の間、ジャカルタに駐在した4年間を除き、コンピュータシステムとの葛藤と続けたことになる。システムを作るためには、業務を担当している人間以上に、その業務の内容や手順を隅から隅まで知っておく必要がある。逆に云うと、1つシステムを作り上げると、その部や課の仕事の内容や進め方がかなり身に付く。その達成感や、構築過程での人との付き合いを求めて業務を遂行して来たのかも知れない。

  36.山口勝弘 「 暇人(ひまんちゅう)の生活 」

 当時、唐松とくるみの雑木林だった土地を均ならして、手当たり次第にいろいろな樹木、花々を植えました。今その樹木は大木になり、ささやかな森の様になっています。また家の周囲にはいくつかの小さな小屋(道具小屋、薪小屋、展望台など)を立てました。あっと思う間もなく時が過ぎ、今ようやく一段落しているところです。

 今の私にとっては日常生活の変化がすべてであり、暇人の特権を生かして精神的に贅沢に暮らす今日この頃です。 追手門の高校時代は宝塚南口から通学し、テニスに明け暮れる毎日だったことを懐かしく思い出します。「古希」を迎える年になり、これからどう生きていくかが楽しみです。単々とシンプルに先のことは考えず唯、只管、体力の続く限り、前へ進んでゆきたい!皆様の健康を心よりお祈り申し上げます。

  37.山崎 公司

  38.山本 久臣

   永眠<2004平成16)年>

  39.雪本 敏治   「 近況報告 」

 追高卒業後、同志社大に進み普通は4年で卒業のところを5年間しっかり勉学(笑)。
 その後は大手広告代理店を経て、岡山にあるテレビ局に就職。38年間テレビ制作現場で仕事し、5年前に無事放送局を卒業。翌年に妻と一緒に四国霊場88ヶ所巡りに出かけてきました。
 現在は妻との二人三脚で趣味三昧の毎日を過ごしています。天気が良ければ青春18キップを手に全国のローカル線を乗り歩き、雨が降れば20代の頃から始めたアマチュア無線に没頭してマイクの前で「CQ CQ CQ」と無線交信に勤しんでいます。コールサインは「JA4WAL」です。HAMに関心あれば一度空で会いたいですね。その様子は数年前に開設した私的なホームページに記載して元気に頑張っている証として記録しています。HPは現在一部更新メンテナンス中ですが機会あれば一度覗いて下さい。URLは下記の通りです。  http://www1.harenet.ne.jp/~amo0223/

  40.雪本(博)

  41.横幕 宏治

  42.浅子(池田)成子

  

  43齋藤(池田)友紀子 「 皆さんへ 」

 前略
 ますます御健勝のこととお喜び申し上げます。長らくご無沙汰して居りますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?
 先日、内藤禮子様よりお電話を頂き、誠に有難うございました。本当に懐かしく嬉しく思いました。久しぶりに皆様の高校時代の一人一人の顔が浮かび本当に懐かしかったです。
 私もここ2~3年の間にカテーテルを入れたり、腸に初期ガンのポリープを摘出したりしましたがお陰様で病院とお店の両輪で頑張っております。

仕事は焼き鳥・唐揚げのお店を生野区の巽店、桃谷店の2軒で30年頑張って居ります。お客様に元気を頂きながら何歳迄も頑張って行くつもりで居ります。
 12年前に夫は他界しましたが、1男5女、孫5人と毎日にぎやかに楽しく過ごして居ります。忙しい合間をぬっては旅行をしたり、園芸を楽しんだりして居ります。
それではいつの日か皆様にお目にかかれる日を楽しみにして居ります。末筆ながら、一同様にくれぐれもよろしく申し上げてください。
 草々

  44.長瀬(今津)文子

  45.中島(上野)明子

  46.西崎(清川)和子 「 つれづれなるままに 」

 95歳になった母は今、病院のベッドで何を想っているのだろう。言葉が出なくなった最近になって、聞いてみたい事や伝えたい事が次々と出てくるが、時すでに遅し、という感じだ。
 昔、よく聞かされた話で、子供心にも怖くて、忘れられなかったのは、大正12年の関東大震災で、10数万人が死亡するという大惨事だった事。又、昭和20年の東京大空襲では300機以上のB29爆撃機が、地上をなめ尽くすように焼夷弾を落とす中、母は姉の手を引き、私を背負い、空からの弾をよけながら逃げまどい、あまりの熱気に背中の私は失神していたそうだ。1夜で10万人が犠牲になったという。B29は低空飛行で、操縦士の顔が見える程だった、と言うから、よくぞその中を生き延びたものだ。
 それからの困難な時代を、柔道が趣味の酒豪の父に仕え、私達4人の姉弟を、厳しくもやさしく育ててくれた。
 今、ベッドに横たわり、頭によぎるのは、苦しかった時代の事か、楽しかった娘時代の事か、美しい風景か・・・。

 今の世を生きる私達は、子や孫に、何を人生のトピックスとして伝えよう。阪神淡路大震災、NYの9.11の信じられない光景、東日本大震災、放射能など等、不幸な出来事はあまりにも多い。人類が地球以外の惑星に到達できる現代だというのに、自然の脅威は計り知れない。だからこそ、何が真に大切なことか、ひとが優しさを分け合わなければならないこと、勇気を持ち行動しなければ何もはじまらないこと、そんな事を一人ひとりが思わされているような気がする。
 半世紀前の高校時代も、遠い彼方のものとなった。人生の終焉など無いとさえ思えた無邪気だったあの頃、情熱的な先生方に教えられ、成長していったあの頃。
 今では年相応に、膝が痛い、肩が痛い、血圧が高い、とすっかり古希のオバサンになってしまった。50年前のクラスの光景を思い出すと、懐かしく、ほろ苦い。

  47.仲 (竹林)幸子

  48.平岡(内藤)禮子 「 ネパールに行って 」

 先月ネパールはカトマンドゥに行った。主人とともに仏教を勉強し、先年東北大学で学位を修得したネパール人のスダン・シャカ君の解説つきで、世界遺産であるいやになるほど多くの仏塔・仏像を見てまわった。ネパール人、特にネワール人は芸術に優れ、インド、チベットにも仏像彫刻に借り出されたというだけに、繊細な彫刻であふれている。現在でも仏像製作はネワール人の仕事、殊に貴金属はシャカ族しか扱えない。同族内での結婚という風習を守り、古い仏像や経典を秘蔵し、各寺を維持している人々である。

 ネパールは50年ぐらい前の京都のよう、五山のかわりにヒマラヤ山脈に囲まれた盆地で、特にシャカ族の住むネワール地方は10歩行けばお寺があり、世界遺産がずっと子供たちの遊び場であって、絶えず誰かがおまいりに来てお供えを置き、ろうそくを灯し、仏さまの顔に額をすりつけて拝んでいく・・・普段の生活に当たり前に信仰が入っている。

 インフラが万全でないため、水道水は飲めず、毎晩二時間停電、余裕のある家では発電機を自前で用意している。ひどい王政の時期があったためか、国をあてにすることなく、人々は外国に出稼ぎに行き、稼いだお金で会社を興したり、家を建てたりしている。車は古いが、オートバイを新調するのが流行、狭い道を縫うように走る。日本のゼネコンが敷いた立派な広い道路が目立つけれども、信号は守られず、空しく赤点滅。私はネパールでは運転しない。
 仏教を日本で20年も勉強して何の得になるのだ、と親戚や近所の人から馬鹿にされていたスダン君だったが、博士になって帰国したら、大統領から表彰状とメダルをいただき、今や英雄扱い。彼の家では、彼と日本人来客のために10人のお坊さんの読経と伝統的なネパール料理でもてなしてくれる。私服のお坊さんに勧請してもらうのは初めて。自家製の強烈なお酒をサッと何杯もあおる阿闍梨さま、スダンの家族と冗談をいい合うお坊さん、何ともフランクで、かっこつけないエネルギッシュな仏教徒であった。
 4日目早起きして飛行場にでかけ、エヴェレスト遊覧飛行に。30人乗りぐらいの小型機で30分、一面の雲海の上にヒマラヤの山々の先端が聳える・・・あまりの神々しさに言葉が出ない。これは神の領域だ。人間はこの中に入ってはならぬ・・・。
 きれいな水が豊富すぎて、水や自然のありがたさを忘れてしまった日本人、土に還らないものにばかり頼って生活してきた現代人、今、自然からしっぺ返しをされているのだ、帰国してそう感じた。現在のわれわれの生き方は、便利ではあってもなんと窮屈でギスギスしたものであることよ。
 開高健氏は「文化、文明のあるところに自然はある」「先進国ほど自然が守られている」との言葉を残しているが、森や林が荒れ放題の「大人になれない」日本、危機感はあっても何をすべきなのか、だれが音頭を取って自然を守っていくのか、後の世に憂いを残したくないが、その前に自分の命が終わりそう。酒井先生のおっしゃる良寛和尚のようにこの世を旅立ちたい。

  49.井尻(畑田)紀子

  

  50.岸本(速水)和子 「 近況、あれこれ 」

 孫が駅伝に出場し、自分も陸上部の駅伝に同行した折りのことを思い出しました。倒れ込むほど力を使い切って走る選手の皆さんが光り輝いていて、とても感銘を受け、その時の感動が今も箱根駅伝を初めとする駅伝のテレビ観戦、千葉国際駅伝の沿道応援につながっているので、長い間興味をもてるものへの出会いに感謝しています。
 近頃記憶力に衰えを感じるので、脳の活性化のために脳トレ教室と麻雀教室に通っています。脳トレでは計算、音読、運動、歌やいろいろなリクレーションをしたり、福祉や保健の講義を聴き、最近ではエンディング・ノートの作り方を学びました。自宅学習や宿題もあり、学生気分に戻って頑張っています。50~70才台の人たちですが、皆で会話やふれあいも楽しみ有意義な時間です。
 他に千葉観劇を観る会に入っています。会員で運営をしているので、年に一回例会を担当し、いろいろなことが経験できます。先日も演出家浜畑賢吉氏の演劇講座を聴きにいきましたが、その折りに三田和代さんの名前を耳にし、なつかしくうれしく思いました。
 医者通いと薬は欠かせませんが、テニスなどもしながら何とか元気に暮らしています。周りに迷惑をかけず自分なりに過ごしていけたら幸いです。

  51.古川(皆川)悦子

              永眠(<2007(平成19)年2月>

  52.芹生(森下)孝子 「 光の中を歩みたい 」

 酒井先生のご心境の良寛の言葉には、深く感じ入りました。主人も読み、「立派な方だ・・・」と心底思ったようでした。
 ふと思い出しました。高校3年の進路指導で、職員室で酒井先生に「どうして東京でなく、岡山へ行くの?」と聞かれました。「東京はお金がかかって、親に悪いから・・・」と答えましたら、「どちらも同じだよ」とおっしゃった時の優しいお顔が浮かびます。
 私は、上野さんが大学から取寄せられた願書を「家で反対されたので、森ちゃん行かない?」といただいて、受験しました。両親が四年間の寄宿舎生活の学生時代を送らせてくれたのも、私には奇跡の様なことでした。
 竹林さんと、学音(朝日学生音楽協会)に入っていました。いろんなコンサートの中で、一番ハーモニーの美しかった時代のダークダックスのコンサートに何度か行ったのを思い出します。その時は、学校の帰りで、鞄を持ったまま、フェステイヴァルホールの地下の食堂で、一番安い、木の葉どんぶりを食べました。

 良い先生や、友人、親に恵まれて、それでも泣き言も多かったこの所の人生を、改めて感謝しています。
 一組の皆さんのそれぞれの70才、ともどもに、最後まで、光ある内に、光の中を歩みたいです。

  16.倉田 維晴 「 私をつくった先生方 」

 70年の人生で僅か3年だが、濃い中身だったと思う追高時代を振り返ってみる。
 私の家庭事情は少し複雑で、父が敗戦2年後の4才の時に亡くなり、4才上の兄と9才下の妹の貧しい母子家庭で、母は必死で働いていたが、兄と私も幼い頃から新聞配達などで働いて、家計を助けるという生活を営んでいた。
 家から東に歩いて1分の所に府立生野高校があったが、公立高校の授業料の納入もしんどい家計状況なので、特待生の制度によって追手門学院に入学できた。そこで私の人生を決めるほどの影響を与えた級友や先生、先輩、後輩に出会った。先輩では、敬称略で、金一・亀山・福井(関学の経済を出て追手門学院大学の教授になられた)、級友では、高瀬・稲田・中野・河井・藤原・傍士など、後輩では奥田・木谷など多くの人たちである。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は eb41df6ababd931602bfe31915ed685b-2000x1067.jpg です
1年生夏休み中の真田山での水泳訓練。私(倉田維)はこの時初めて泳げるようになった。上野さんや森下さんなんかはイルカのように泳いでいた。サッカー部の安井君は堂々としていて先生のように見える。杉原先生の前の私は、中学生のように、おぼこい。

 先生方には、生意気盛りをいいことに食って掛かったことが多々あり、皆さんは腹が立っておられたと思うが、優しく的確に対応していただき、私の成長に寄与していただいたと深く感謝している。今も時々思い出す先生方との、印象に残っている出会いというか、ぶつかりを記して見たい。

藤田先生(化学):

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 8f6660609076ec39e422b8ef42f18b88.jpeg です
3年生の時の化学部 2年は藤原君、3年は私が部長。

 わかりやすい丁寧な授業で、生徒実験も多くしていただいて、科学&化学の面白さを教えていただいた。授業開始後すぐに傍士・藤原・中野君と一緒に化学部に入れていただき、薬品も一杯利用させていただいた。
 中野君とはその後、永いつきあいになるが、彼は大阪大学の工学部・電気工学科に入学、卒業して、大阪大学大学院基礎工学研究科・生物工学専攻に進む。当時全共闘運動の真っ最中で、大阪大学でも「ベトナム反戦・権力者の大学から人民の大学へ」をスローガンに掲げて闘われていた。倉田は理学部で、中野君は基礎工学部で大学院生であったが、豊中キャンパスの理学部と基礎工学部大学院性3名で、教養部の無期限ストライキを支持する、というビラを配布したのが大学院生の戦いが広がる契機となった。卒業後その研究室の教官で助手をしておられた奥様と結婚し(杉原先生も参列された結婚披露宴は私が司会をした)、スエーデンの医療機器を輸入販売する会社に就職した。大学医学部との共同研究の中で自分もドクター資格を取る必要を感じ、35才ごろ会社をやめ、医学部に入り直し、40才を過ぎて医師免許を取った。その後阪南市民病院など泉南地区の大病院の内科の勤務医になり、2006年頃に和泉中央駅近くに念願の「中野内科クリニック」を開業した。

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    泉南市の白井病院の内科医の頃の中野君

 その頃中野君はかなり悪化した状態の大腸がんが見つかり、手術した(4年前のクラスの同窓会の時には彼は入院手術中だった)。後の経過は良好だったが、その後身体のあちこちに転移してこの2011年7月に亡くなった。

 化学変化は見た目にもダイナミックで、理論だけでなく実際に実験する大事さ・楽しさを学んだ。
 実は、私の兄は家から西に歩いて3分の大阪市立生野工業高校の機械科を卒業して松下電器に入っていたから、私も工業高校に進んで、すぐに働くことになっていた。ところが、母の兄が布施で薬局を経営していて、「医薬分業」という時代の流れで「医者は診察、薬は薬局」と任務分担することが政策として出されていた。薬局が医師と提携する必要がある、と判断した伯父が「倉田一族にも医師が欲しい」と考えて、たまたま中学校の成績が良かった私にその矢が当たって、医師になるために普通高校へ行くことになった。いざ入学してみると私の興味関心を引きつけたのは、生物学ではなく数学や物理・化学であった。先ず私の心を奪ったのが藤田先生であり、次が岩田先生・内田先生・杉原先生であった。医師を望んだ伯父は残念がったが学資の援助をしてくれた訳でもなかったので、最後は私の好きなようにさせてくれた。この伯父さんが「倉田一族に医師を一人!」と言ってくれなかったら、私は普通高校には来ていない。

横田先生(生物):

 1年生の秋の生物の授業のときに、いつもになく先生が興奮されている。皇太子が始めて民間のお妃・正田美智子さんと婚約したと報じられた日、「ノートの端にそのことを記念に書いておくといい」と言われた。私は書いたかどうかは忘れたが、その後、クラスの皆川さんや竹林さんが、美智子さんの出身大学に進まれることになった。
 天皇については小学校4年だったと思うが、担任の先生が、ある日新聞を持ってきて、古風な身なりの人の写真を掲げて「この人が誰か知っていますか」と尋ねた。みんながハイハイと手を上げた。みんなが知ってることで私が知らんことはないだろうと恐る恐る手を上げたら、運悪く当てられた。「聖徳太子!」って答えたら、先生が凍りついた。平成天皇の成人の儀式(立太子儀)の写真だった。当時極貧の生活で、新聞もとっていなかったから知る由もなかった。天皇制と私の折り合いの悪さはこのときから始まったらしい。新憲法下でも、その心に「天皇」を保っておられて、皇室の慶事を自分の喜びと感じられる先生もおられるのだなあと思った。教壇でそのことを話されたのは私にとって、お二人目であった。
 生物学は分類学のような定性的分野だけでなく、定量的な実験をやって研究する分野もあることを知った。

酒井先生(日本史、3年の担任):

 先生の授業は、史実を丹念に追った緻密な授業だった。歴史上の人物の姿をリアルに語っていただき、歴史は面白いなあと知った。歴史を変える人たちの意気と民衆達の動きがあいまって、ダイナミックに展開することを教えていただいた。私は当初、京都大学(私の事情ある父は京大・理学部卒であった。私が生まれる以前は、当時造幣局の北にあった市立桜宮高等女学校<今の桜宮高校>の校長をしていた)を志望していた。入試で理系の生徒も、社会として日本史と世界史の2科目の試験科目があった。先生の授業に触発された私は、日本史がおもしろくなって、良く出入りしていた学校の図書室で、岩波書店の「岩波講座・日本史」を第1巻から読み始め、全20数巻を読み通した。その後は「京大・日本史」全15巻を読んだ。3年生の受験勉強では、単なる受験勉強ではなく、「学問に触れる」という気持ちになれたことは嬉しいことだった。実は、私の大学受験については、兄から2つの条件がつけられていた。一つは、家計から大学入学金・授業料の支援がほとんど出来ないので、私学受験は認めない。したがって国公立の受験に限ること。二つは、上と同じ理由で、もし受験に失敗したら「浪人」出来ないこと。高卒として働くこと、もし希望するなら、働きながら夜間の大学に進んでも良い、ということだった。そんなわけで学問に触れられるのはこれが最後かも知れない、という気があった。そんなわけで、受験校の最終決定の時、井町先生に「京大は、その日の出来で合否半々、阪大は可能性大」と言われ、阪大にしたという経緯がある。
 先生には3年生で政経部の顧問をしていただいたが、政治問題に活発に関わろうとしていた部員に比較的おおらかに活動を許していただいて感謝している。

中川先生(世界史):

 先生の世界史の試験問題はすべて記述問題で、1組のクラス平均点は30点台だったと思う。自尊心の強い1組の生徒たちの困惑というか怒りがあって、カッコ内に文字や年代を入れるような簡単な記憶問題に変更してくれるよう要望が出されたが認められず、「歴史で大事なのは細切れの知識ではない。それぞれの時代を作った力、それを変える原動力のせめぎあいでダイナミックに歴史をとらまえることが歴史学習の意味だ」と伝えようとされていたように思う。先生は、特攻隊として出撃を待つ間に終戦(敗戦)になったと伺った。その頃のことはあまり語られなかったが、軍国青年だったそうである。その無責任極まる戦争指導者に踊らされた自分自身への自戒もあってか、暗記物ではない歴史学を目指されているのだろうと思った。先生の授業で、歴史は知識でなく、自分たちが生きているこの時代をどう生きていくか、を考えるための一番基礎となる教科だと思った。クラスで先生の授業を一番心待ちにしていたのは私であった、と自負している。先生は私が人生で出会った先生方の中でもっとも敬愛する先生のお一人である。
 先生の言葉で一番印象に残っているのは「歴史は一直線に進んでいくのではない。螺旋を描いて進んでいく。」という言葉だ。これは、輝かしいフランス革命のあと、その成果を捻じ曲げたナポレオンの皇帝即位、さらに市民革命の波及を恐れる周辺の絶対王政国家によるウイーン反動体制などのところで熱をこめて語られた。ひとつひとつの事件は歴史の逆方向に見えても、確実に歴史は進んでいる・・。歴史の進む方向、それを私は一人ひとりの人間の尊厳を大切にする社会の実現と思っている。自分もその社会発展に寄与して生きていきたいという気持ちに確信を持たしていただいた。ソ連圏崩壊後のブッシュのアメリカのような、市場原理主義経済というハイエナ資本主義は反動の典型であると思う。
世界史は文章記述が苦手で、いい成績はとれなかったが、大好きな教科だった。

中村先生(倫理):

 1年生の一般社会だったか、倫理社会の授業があった。パスカルやカントの思想の関連で、「観念論(唯心論)」と「唯物論」の違いを述べられて、結局は「心が大切か?物が大切か?」というようにまとめられた。生徒にどちらの説に賛成か、と挙手するように言われた。心と物の比較で、物が大切だ!なんてそんな馬鹿な思想があっていいんか!と思った。それでも誰だか忘れたが勇気をもって、唯物論に賛成だと手を挙げた人がいた。2年生になって、社会主義思想に触れるにつれて、その両者の思想の違いは「人間の行動や人間同士の諸関係を規定するものは人の観念か、あるいは生産関係のように物質的な諸関係であるか」の違いであることを知った。共産主義の創始者のカール・マルクスは敬虔なクリスチャンで、産業革命後の資本家の搾取により悲惨な生活にあえぐ労働者に、人間的な尊厳を回復するために、物質生産を巡る権力関係を革命という形で逆転させる必要がある、と説いた。「人間の意識は物質的諸関係に規定される」というのが唯物論である。心が大切だという点でも唯物論が勝っていると今の私は思っている。太平洋戦争での日本人戦死者は東京大空襲・原爆死者も含めて310万人と言われている。歴史学者の半藤利一氏によれば、そのうち軍人の死者212万人、そのうちのなんと7割が戦地での餓死者という。敵と戦って死んだのではない。大和魂という観念論でなんという人命軽視かと思う。
 思想的な違いがあったが、思想に興味を持たせていただいたのは、先生のおかげである。背筋をきちんと伸ばして歩かれる姿が印象的で、「心正しく生きて行きなさい」とメッセージを発しておられて、私はそのメッセージをきちんと受け止めたいと思った。

神楽岡先生(現代文):

 2年生の春、現代国語の教材で、島崎藤村の落梅集「千曲川旅情の歌」があった。中間考査の問題でその解釈の問題が出た。私は一生懸命考えて書いたが、ほとんどがバツだった。そこで答え合わせのときに挙手して質問した。「この詩の解釈で、僕は一生懸命考えて回答したのに、先生はそれを間違いと一方的に決め付けているが、客観的な根拠があるのか?」先生の答えは明確だった。「国語の試験で、あなたの考えや意見を求めることはほとんどない。この詩の価値や作者の考えについていろんな意見があるとは思うが、それは出題の範囲ではない。国語では作者が言わんとしていることを、どれだけ正確に読み取れているかを問うているに過ぎない。作者が考えていること、伝えたいと思っていることがきちんとある文章を教材に使っているので、答えもひとつである」というものでした。先生は、答案はバツだけど、本当に大事なことは作者の伝えようとしていることをきちんと理解したうえで、君の言うように、自分の意見や感性を作っていくことだ、と言っていただいたと思った。それまでは国語という教科の位置づけがわかっていなかったが、これ以降、国語はあまりいい点はとれなかったが、私の好きな教科になった。
 先生にしかられたこともある。これも2年生の頃と思うが、作文の課題が出された。「私の幸福論」を書いて提出することであった。自分にとって、幸福を語るのは簡単ではないなあという気持ちもあって、図書室によく行っていて親しかった司書の池上さんに「幸福論ってかなわんなあ、なにか参考になる本がありませんか?」って相談したら、ヒルティの「幸福論」を推薦された。彼女は敬虔なクリスチャンで、この本はキリスト者の幸福感はこうである、という内容で、キリスト教に触れたことのない私にはえらい難解であった。自分で考えることを放棄して、自分の手に負えない本に向かい合ったものだから、もう大混乱してしまって仕方なく、その本の要約を提出した。すると先生は授業で、「自分の意見でなく、他人の意見をそのまま書いた人がいます。申し出なさい」と言われて、すごすご謝りに行った。私がえらい恥じていたからか先生は、はい、とおっしゃっただけだった。先生とのこの二つのことは、しょっちゅう思い出す。

岩野先生(古文):

 1年生で古文を教えていただいた。大阪大学・国文学科の出で、やさしい先生であった。宇治拾遺集で鼎かなえをかぶって踊る法師の話があった。私たちが集中しないでざわざわしていた時に、黒板いっぱいにさぁっと、この状況の絵を書かれた。私たちは見る間に静まって黒板に見入った。先生の優しさに付け込んで、初夏のさわやかな日には、大阪城の芝生の上での野外授業をねだったりして実現したが、他のクラスもやるようになって、できなくなった。先生は、「航跡」という学校誌の担当で、授業で詩や随筆や短編小説を投稿するように言われた。先生が好きだった私は、頑張って私の日常を短編にして投稿した。当時私は1年生なのに中学校3年生の私学受験生の家庭教師をしていた。多分母が、特待生で高校に入ったことをあちこちで自慢話をしたのだろう、それを聞いた人が自分の息子の指導を頼んできたらしい。週に3日今里駅の近くに行き全科目を教えた(この生徒は翌年無事に、興国高校に合格してくれた)。

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       高校1年生の時、今里の家庭教師先の家で。

私は小学校の3年生から中学生の兄の新聞配達を手伝い、4年生からは一人で新聞を配るようになってから、家計を助けるためにずっと働き続けてきた(中3の9月からは医師を目指して普通高校に行くことになったから、受験勉強させて欲しいと願ってやめさせてもらった。私の小・中学校時代はこの新聞配達と幼い妹の子守と母の内職の手伝いで大半が占められていた。小4の孫を見るにつけ、この年で家計のために働いていた自分自身がいとおしく思える)。今と違って日曜も夕刊があり、新聞休刊日は正月、こどもの日、春分、秋分、勤労感謝の日くらいしかなく、朝は4時半から起きて、夕方は4時になったらどんな遊びもやめて新聞店に行く。そんな生活を6年間続けてきた。私は低血圧で朝、起きられない。でも母親は「まさはるちゃん、皆さん、待ったはるよ」と起こす。もう少し寝かせてとせがむ。ある日、私を起こす母親の目に涙を見つけて、私は、子供も辛いが、わずかの給料ではあるが、生活費のために小さい子供を起こす母親ももっと辛いかも知れないと、だんだんと思うようになった。この母の涙に気付いたことが、この後の私と母の結束の絆となった(母は琴の師匠、自動車整備工場の掃除婦。化粧品のセールス、内職などで必死に働いていた)。

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   新聞配達をしていた小学校4年生頃、妹と(生野児童館で)

朝日新聞を配っていたが、配達区域は生野区なので在日韓国・朝鮮人も住まわれていて、級友も住んでいる地域であった。生活保護は受けていなかったが、中1の担任の先生が教育扶助を受けるよう申請してくれ、教科書や学用品を支給してもらっていたが、その世話をしていただいた事務室のお姉さんが配達区域に住んでおられて、「頑張ってるね」とよく声をかけて下さって、そんな風に自分を見てくれている人がいることを知ってうれしかったことを覚えている。小学校4年生頃、朝刊を配る早朝に、朝一番の電車で仕事に行く夫を送り出す一人のおばさんと出会った。そのおばさんの顔の左半分にはものすごくひどいコブになった火傷跡があり、私はそのおばさんの顔を怖くて正視できなかった。それでも何度かお会いするうちに、挨拶をするようになったが、不思議なことに新聞少年の私に時々、あめ玉をくださるようになった。そのおうちは子供さんがおられなくて、貧しい様子で新聞も取っておられなかった。「女の人なのに顔の火傷はどうされたんだろう?」「・・なんでぼくにあめ玉をくれるんだろう?」と私の胸に疑問として残った。小学校の6年生の時(1954年)、自分の配る新聞でアメリカが中部太平洋で原爆や水爆実験(原爆の100〜1000倍の威力)を繰り返していること、そして何回目かのビキニ環礁での水爆実験の時、日本の何百隻ものまぐろ漁船が死の灰を浴びて被曝し、静岡県焼津港からの第5福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなった記事を読んだ。それをきっかけにして東京杉並の主婦たちが「原水爆実験の禁止・核兵器の廃絶を求める」署名運動に立ち上がり、あっという間に日本中に、世界中に広まった。実は広島・長崎に原爆を落された私たちがアメリカ軍からの報道規制などの抑圧をはねのけて、初めて世界に、広島・長崎の被害の実態を伝え「これは許されないことである」と大声をあげたのだ。広島・長崎の報道を目にして、私にあめ玉をくれたあのおばさんが、きっとあの原爆で私くらいの歳の男の子を亡くされたお母さんにちがいないと電撃のようにわかった。私の母が私達子供に希望を託して自分を励まして生きているのに、その宝の子供を原爆で奪われたであろうそのお母さんの苦しみは自分の顔の火傷も相まって、いかばかりだろうか?このおばさんとの出会いが私が腹の底から核兵器を憎む原点になっている。

 高校入試で一時中断した私のアルバイトが、高1の7月から再開した。新聞配達の2倍の謝礼金をもらった(そのお金は家計にではなく、定期代や昼食代・参考書・本の購入に使わせてもらえた。家庭教師は高校3年になって自分の受験勉強のためにやめたので2年弱やったことになる)。その家庭教師にまつわることや日常の生活で考えていることなどを「航跡」の原稿に書いた。先生が、なかなかいいとほめてくれて、助言をしてもらって、一部書き直しをして掲載してもらった。こんな生活苦の中でも、けなげに生きていこうとしていると思って下さったのだろうか、先生は上級生になって授業を担当されなくなってからも、廊下で会うと「頑張り過ぎたらあかんで、無理せんようにしいや」と声をかけて下さっていた。そんなことで岩野先生が私の一番の理解者だったと自分勝手だがそう思っていた。3年生のときに先生がご結婚されて、それを学校新聞にのせるために新聞部員として西成区の千本の自宅へ取材に行って、ご馳走していただいた。先生が好きだったので古典も得意科目になった。
 先生が亡くなったとき、嫁さん(その頃、追高茨木の世界史の先生をしていた)と一緒にお通夜に行ったとき、奥様に、先生との思い出を語られる弔問の方が大勢おられたのが印象的であった。

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  新聞部員として、新婚の岩野先生宅を訪問

岩田先生(数学):

 私は申し訳ないが、数学の授業はほとんど聞いていなかった。というのは、数学の教科書はわかりやすく記述されており、中学校の頃から、「数学は教科書の予習で、教科書の隅から隅まで完璧にやる」という主義でやってきた(参考書を買ってもらえなかったのもある)。私のこの予習ノートは友人達から、良く見せてって言われた。私の家庭学習の時間の大半はこの数学の予習に当てられた。授業の進度より1週間ぐらい前を進んでいたから、授業内容はほとんど理解していた。自分で解らなかった所は印をしておいてそこの所だけはきっちり聞いた。そんなわけで授業中も一人で教科書のだいぶ前を一心不乱に予習していた。先生はそんな私を知っていて、黙認してくれていたように思う。特待生の入試の時、数学だけには自信があったのに、解けない難問題が一つあった。それが岩田先生の出題であったことがわかり、私の中では難問=岩田先生ということになった。そんな先生の出した問題は、全部解いたるでぇ・・というのが私の数学学習の意気込みだった。特待生の間でも数学の点数にはこだわって競争していた。そんないい緊張感もあって実力がどんどん伸びていった。授業はみんな集中して受けていて、先生の迫力に圧倒されていた。その迫力の先生に異議申し立てした人がいる。出羽君だ。言い分は出羽君に正当性があった。が先生が以前担任されたであろう卒業生への思いが伝わってきて、先生は現在のにしろ昔のにしろ生徒へのやさしい心遣いをされている熱い先生である、ということがわかった出来事でもあった。

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高1,宝塚の六甲遠足

 先生の授業はすごいスピードで、3年生の秋にはもう教科書を終わっていた。その後、先生の発案で「解く実力問題を各自考案して、みんなに提示する。それを全員で解く!」ということになった。自分もオリジナルの問題を考えようと思って頑張ったが、生やさしいことではなかった。いろんな問題をくみあわせた問題でお茶を濁した。私も教師になって、高校入試で実験の実技試験の問題を作成するときなど大変だったが、どこにもないオリジナルのいい問題ができたときは、人には言えないけれど、うれしいものだった。

 岩田先生には2年生秋の修学旅行で大層お世話になった。この頃、追高の修学旅行は北海道と決まっていたが、北海道を襲った直前の台風被害で、北海道旅行が不可能となった。修学旅行が中止になるかも知れない、と聞き、えらいこっちゃなあ、と思っていた。そこを山男で野外活動のベテランの岩田先生を中心に学年の先生が奔走してくれて、急遽、東北修学旅行となって実現した。今年大津波に襲われた松島、白虎隊の会津若松、今年世界遺産に指定された平泉、宮沢賢治の花巻、奥入瀬渓谷、十和田湖どれも印象深く思い出に残っている。この修学旅行で皆さんに迷惑をかけた。旅行の実行委員だったのに、途中でぜんそくの発作がでた。秋になる頃に時々でるのだが、そのきっかけは、気温の急な下降やハウスダストのこともある。初めて発作が出たのは、小学校の4年生、猫の毛をたくさん吸い込んだのがきっかけだったが、そのいきさつは、悲しすぎてここでは語れない。この時は枕投げのホコリと東北の気温降下のためかなあと思っているが、布団部屋のようなところで、一人で静かに寝かせていただき、養護教諭の西村先生を初め皆さんにやさしく介抱していただいた。

杉原先生(数学):

 先生の思い出は、語り尽くせない位いっぱいある。京大の理学部・宇宙物理学科の出で、数学の話以外にも、物理のこと、科学者のこと、ドイツの原爆開発に対抗するとして始めた米英の原爆製造計画(暗号名マンハッタン計画)、関わったノーベル賞級の物理学者数万人を指揮して成功に導いたオッペンハイマー(ユダヤ人でアメリカ共産党のシンパだった)のこと、天文学のこと、先生が京大生として関わられた学生運動や1953年の京都の荒神橋事件のこと(嫁さんの10才年上のイタリア文学者のお兄さん・藤沢道郎さんがこの事件で逮捕されたという。生きておられたら80才で先生はご存じかも知れない)など私たちを子供扱いしないで、一人の人間として扱っていただき、メッセージを一杯いただいた。この先生のような生き方がしたい、と思うようになり、いつの間にか、物理の道を進むようになった。
 高3の正月、生駒山の山上に京大の天文台があり、先生がその宿直当番のような形で泊まり込むことになったらしく、河井君や中野君らと寒い寒い中、生駒山を登り押しかけていった。真夜中、私たちの寝る部屋にごろっと転がっていた大型の重い望遠鏡を引き起こして、星を見てみようと河井君が言い出してやってみたがうまくいかなかった。彼の指導で混成3部合唱の練習もやった。
 先生の阪急宝塚線の山本駅近くの家ですき焼きをごちそうになったことも、卒業後に先生が兵庫農大に移られたときも例の特待生仲間と篠山に押しかけて泊めていただいて天下国家科学の未来を、夜通し語り明かしたこともあった。

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杉原先生、岩野先生と.高2、青山高原遠足

 私は大学院の修士課程・博士課程の時も大学闘争で闘って大学に残れなくなり、研究者としての才能もあまりないことを自覚して、兵庫県の県立高校の物理教師になったが、先生が私たちに熱く語ってくれたように、自分が生徒に語れているかいつも自問する。オッペンハイマーは、原爆完成と、広島・長崎の爆発成功で英・米で英雄となったが、その後の冷戦下での水爆開発に、人道に反するとして反対したために、今度はソ連のスパイとて断罪されてあらゆる公職から追放された。彼は、必要なときは軍隊や政治に利用され、完成したら軍のものとして勝手に使われ、異議申し立てをすると犯罪者とされて、捨てられた。彼のことと、戦前の日本で極秘に行われていた原爆製造計画の記録(久米宏のニュースステーションで放映された)を、科学者の社会的責任を考える大事な教材として、3年の原子核エネルギーのところで特別授業としておこなっている。その授業の感想文「原爆製造半世紀・理系の高校3年生はこう考える」の残部があるので、希望者に差し上げますのでよければもらって下さい。

柴岡先生(英語):

 若さはつらつ、ダンディーの代表は柴岡先生である。背筋をピーンと伸ばして大股で歩かれていて、「君たちの心も見えてるでぇ」という風にきらきら輝く目で見つめられると、「はい、先生、頑張りますっ!」とつい言わされてしまうオーラの持ち主であった。「英語の文章の構造は簡単で、4つ(?)のパターンがあるに過ぎない。その目的語に関係代名詞で修飾する文が付いていたり、動詞に修飾する副詞句がついていて、見てくれが複雑になっているに過ぎない。それを整理するために、関係代名詞以下に[  ]を、副詞や修飾語には(  )をつけて、シンプルにしなさい」として、理系の生徒が多かった1組の生徒に親しみが持てるように、空気中の微粒子のホコリが、地球環境を守っている「ダスト」という教材で教え込まれたことを覚えている。その教育実践の研究授業で、大阪府下の多くの先生方が見学に来られることになり、私たちも先生を盛り上げようと密かに前日は特別に授業の準備をしたものである。

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     高2,新婚家庭を訪問、左端は先生のお母様。

 高校2年生のとき先生が結婚された。京阪沿線の香里団地のご自宅に傍士君らと押しかけた。ピアノの先生をしておられていてお美しいと評判だった奥様を見せて欲しいというリクエストに抗しきれずにお招きいただいたのだと思う(新聞部の池田友紀子さんが写っているのでその取材を兼ねていたと思う)。その日フィギュアスケートをしている先輩も尋ねてきて、スケートに合う音楽のことで先生の助言を求めていたので、先生を慕う卒業生も多いことを知った。当時先生はハリー・ベラフォンテをお気に入りであった(結婚前にご一緒にコンサートに行かれた様子だった)。
 卒業してからも、私と中野君でご自宅を訪問したことがある。奥様とその妹さんのすてきなピアノの演奏を聴かせていただき、私も死ぬまでに一度ピアノが弾けるようになりたい、と電撃のように思った(この訪問はどうも中野君と妹さんを出会わす場のようであった)。45才頃に、ヤマハのクラビノーバというピアノタッチ(強く鍵盤を押すと大きな音が出る)の最初の電子ピアノが発売されて購入した。ヘッドフォンで聞いて音を外に出さずに練習して、「青葉城恋歌」がひけるようになって、それで満足して弾かなくなったが、もしこれができなかったら臨終の場で「一番に心残りは、ピアノが買えなくて弾けなかったこと」と言うだろうことは間違いなかったほどの願いだった。

中島先生・山本先生(体育):

 1年生の体育祭の練習で、「佐渡おけさ」「ちゃんちきおけさ」の民謡踊りと一緒に、フォークダンスがあった。整列して、中島先生や山本先生が、「はいっ、手をつないで!」と言っても誰も手をつながない。生徒達の抵抗もなかなかで、手をつなぐまで10分もかかっただろうか。この時、女性として意識して初めて手を握ったときの柔らかな手は、脳天を突き抜けるくらいの感触だった。

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3年生、週に1回昼休みに本館屋上で生徒会主催のフォークダンス会を開催、20〜50人が集まった。

 私も教師になって、西宮にある県立鳴尾高校で“野外活動の倉田センセ”として、「ファイアー・ラリー」という学校祭の前夜祭で、廃棄された枕木(阪急電車から提供してもらった)を高く組んで火をたき、その周りでフォークダンスをする、という生徒会活動の指導をしたことがある。クラス練習が出来ずに崩壊状態になっていたのを若い先生と一緒に再建した。クラス練習の完全実施と「鳴尾スペシャル」の導入を行った。例年、オクラホマミキサー・コロブチカ・スピニングワルツという伝統のフォークダンスを踊ることになっていたが、「鳴尾スペシャル」とは、毎年生徒の人気投票で新しく選ばれたはやりの曲に振り付けをした創作ダンスのことである。各クラスごとに練習を義務つけた(練習しないクラスは参加できず見学することにしたが全クラス参加した)のだが、その指導者の指導から始めた。初めての練習で、手をつながせるのが非常に難しかったが、自分の高校時代の経験もあって困難の理由がわかっていた。普通ダンスでリードするのは男子ということになっているが、それは慣れた人の話である。一般に思われているのとは違って、男子は女子に対して非常に臆病である。とりわけ自分がスケベーであると思われたらえらいこっちゃと思っている。だから手をつなげ!て言われたぐらいで手を出したら名折れだと男子のほとんどは思っている。このことをみんなに言って、「そんなわけで男子はシャイだから、女子が先に手を出して下さい」と指示し「女子が手を出してるのに、手を出さない男は女性に失礼になる」と言うと、スムースに手をつなげるようになった。ファイアーラリー委員が指導者になるクラスの練習でも、手をつながせるとき、上のようにみんなに話させると、生徒だけでもクラス練習が出来るようになった。校庭の真ん中で3メートルにもなるファイアーの周りを3重円で1000名以上の生徒が整然と踊るこの行事は生徒達が心待ちにする行事になった。こういう指導が出来るようになったのも、追高でのフォークダンスの指導をしていただいた先生のおかげである。

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兵庫県立鳴尾高校のファイアラリー。オクラホマミキサーを整然と踊る1000人の生徒。追高でもやりたかったが出来なかった。下校が夜8時頃になるので、保護者の参加許可を得て参加する。終了後、ロマンスの花も咲いて夜遊びしないよう、先生方で公園などの巡回も行った。

 体育は鈍くさい私には、かなわん教科であったが、それでも努力はした。マット競技の地上回転の授業の時、河井君なんかは颯爽とやっていたが、私はいくらやっても腰から落ちてどうにもならない。すると中野君が、「俺もでけへんねん。放課後練習させてくれるように先生に頼もうか?」と誘ってくれて、山本先生にお願いしたら、快く許可していただいた。出来ない連中3人ぐらいで練習したがやはりあかんかった(もう一人は傍士君か。藤原君は1年で少し病気療養した・・この時、天本さん、森下さん・上野さんらと住吉の自宅にお見舞いに行った・・ためか体育は見学が多かった。そのためか思索家の彼は成績優秀なのにクラスでは控えめにしているように見受けた)。河井君を連れて行ったら良かったと思ったが、地上回転はあきらめた。迫力のある巨体の山本先生の大きな目で見つめられて、にこっとされるとなんでも「はい!やりますっ!」と言わざるを得ない迫力であった。その対抗意識からか、先生のことを差別的なアダナでいう生徒がいて、これはけしからんと思ったが、「それはいかんで!」と直接に言ったことはない、意気地なしの私だった。学年の同窓会の幹事会でそれを指摘したが、皆さんにも考えて欲しいことである。

井町先生(英語・3年間の担任・生徒指導部長):

 先生には、担任として、生徒指導部長として、私に深く関わっていただいた。この私と高瀬君の二人のことで何度、職員会議がもたれたことだろうかと思う。先生は担任としてかばう役と、指導部長として追求する二役をしなければならなかったと思われる。心労をかけて、先生の寿命を縮ましたかもしれない。全く申し訳ないと思う。が60年安保闘争の最盛期、私たちは、花の高校3年生であった。

 私は高校2年生ぐらいから、この世の仕組みは、労働者階級と資本家階級の力関係で動いている、と知るに至り、自分の生い立ちもあり、自分は権力者の側ではなく、労働者・人民の側で生きていくと決めた。図書室で一杯本を借りて読んだが一番心に響いたのは生徒に寄り添う小学校の先生の実話・石川達三「人間の壁」であった。下村湖人や武者小路実篤を読む一方、小林多喜二・三浦つとむ・マルクス・レーニン・毛沢東も読んだ。見聞も深め、社会運動にも参加していった。
 高2位から、反安保闘争の高まりの中で、大阪の高校生の政治意識もたかまり自治会同士で交流しようということで高津高校を中心に連絡組織(大高連)を作ろうという動きが起こった。加盟するかは別として、追高の自治会もその動きを知ろうということを自治会の方針に掲げていた。渉外部を担当していた私が密かに連絡協議会の準備会に出席していたが、学校は非常にその動きを牽制していた(準備会には、高津、生野、大手前、清水谷、夕陽丘、泉尾、布施、市岡など15校位が集まっていた。私学では追高だけだった。このとき出会った人たちと翌年の大学入試後、阪大で多く再会した。各校の生徒会活動の中心にいた人たちは、学習活動でも頑張っていたらしい)。
 学校の近くの大手前広場は反安保のデモの集会・出発地であり、学校の横をデモ隊が行進するのもよく見ていたが、3年生の4月になって、ついにデモに参加した。たまたま大阪府学連(大学生の自治会連合)の阪大の列に入れてもらった。そこで出会ったリーダの樋口さんとは大学に入っても親しくしていただいたが、驚いたことにそのとき紹介してもらった府学連の委員長が大阪市大の井上さんで、追高にいとこがいる、ということだった。なんとクラスの井上君ではないか!(この9月30日、井上君経営の「毎日」にこの文集の原稿を取りに行ったら、いとこではなく、実兄であるということだった。先日脳幹出血で亡くなられたという) 。樋口さんは後に、私が尊敬してやまない3年上の金一先輩と共に「良い音楽を安く」をスローガンにした勤労者音楽協議会(労音)の幹部になられる。世間は狭いというか、人間はつながっている。金一さんが労音で頑張っていた頃の運動の進め方をめぐる内部対立や外部の政治勢力(日本共産党)との緊張の状況が山崎豊子の小説「仮装集団」におさめられている。「白い巨塔」の直ぐ後の作品だが残念なことにこの小説は映画化されていない。

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親友の一人だった高瀬健一君。関学の学生運動に幻滅し、中退して臨時工の組織化を図る労働運動に入る。28才、運動から離れ、税理士試験で5科目一挙合格で話題となる。実業家となり大栄経理学院グループを創設した。司法試験に何度も挑戦するが合格できず、61才、鬱病になって自死した。1周忌に稲田君と自宅を訪問した。1畳もある大きな机の天板に、定規でひっかいてつけた深いキズが一杯に広がっていて、彼が苦悩した深さを表していた。元政経部員で偲ぶ会を持ったが、労働運動を共に闘い、後に部下になって事業を支えた1年後輩の奥田君の話では「大栄に司法試験受験コースを設けるべくそのノウハウを学ぼうと頑張ったが、かなわなかったことで自分を追い詰めたのではないか」ということだった。  取締役社長室にて

 6・15の全学連国会デモで神戸高校出身の東大大学院生・樺美智子さんが殺されたというニュースを見て衝撃を受けた私は高瀬君の家(梅田の今のヨダバシカメラのすぐ北にあった)へ行った。この非常時に自分一人で安保反対を叫ぶだけでなく、同じ思いの人たちが追高でも大勢いるはずだから共同して声を上げられるように取り組むことを決めた。そこで、翌日、安保反対の抗議集会を、よく生徒会の会合で使わせてもらっていた1階の階段教室を借りてやろうと勝手に決めて徹夜で「若き学友諸君へ」という呼びかけのビラを作った。朝、通用門で、先生には当日生徒会で計画していた昼休みの本館屋上でのフォークダンスの案内を渡し、生徒には集会呼びかけとフォークダンスの2枚のビラを配った。岩田先生がふと横を見ると生徒は違うビラを持っているのに気付き緊急の職員会議。二人が呼び出されて、無届けのビラを配ったというルール違反の謝罪とビラの回収のために全クラスを回らされた。この影響でか学校としても安保問題を考える機会を作ろうと後日、安保問題の学習・討論集会が学校の主催で開催された。
 6・15の後の6月22日の反安保の第23次統一行動で大阪の高校生だけの独自デモが大高連の準備会のメンバーで計画され、私が実行委員長をすることになった(それまでは高校生のデモは府高教という高校の先生の組合のデモにくっついてやられていた)。そこで責任者として東警察署にデモ許可申請に行った(当時の署長さんが、多田君のお父さんで、子供の同級生が大阪の高校生の5000人デモの申請に来たのだから驚かれたに違いない。この情報は学校にも伝えられたらしい)。
 当日、大手前広場で私が起草した集会宣言を読み上げ、難波まで整然とデモを行った。追高からも少なからずが参加した。大阪で高校生だけのデモが実現したのは、たぶんこの時が最初で最後だと思うが、その代表が追高生だったのは追高の名誉か不名誉かわからないが、歴史的事実である。

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  1960年安保闘争高校生デモ、難波駅付近。府立高津高校の名前が見える

 その後、8月に東京で開催された第6回原水爆禁止世界大会に、大阪の高校生の代表団の一員として、高瀬君と参加もした。天王寺駅などで派遣費のカンパ活動をしたが、多くの方がカンパして下さって、この運動への関心の高さを感じた。東京では、政経部で秋の文化祭で「60年安保闘争の記録」展示をすることになっていたので、大会後に全学連書記局などに行って配布ビラ等の収集もした。先輩の金一さんの紹介で当時慶応の学生だった三田和代さんのお兄さん(後に三田のコピスターの社長さんになられる)の下宿に泊めていただいた(東京でのこれらのことは東京ルポとして当時文通していた下級生の女の子への手紙に書いたが、運悪くその親に読まれ、学校に通報されたらしく、井町先生も対応に困られたと思うが、結局は秋の停学処分理由の一つにされた)。
 そして秋には体育祭の運営を巡って生徒会が学校と決定的に対立することになった。追高の体育祭はフォークダンス・民謡踊りがあったり、東海道53次という担任の先生を簡易な籠に乗せてリレーで運ぶクラス対抗レースがあったり、と楽しい種目も多くあった。生徒会では私を中心にファイアーストーム(火をたいてその周りでフォークダンスをする)の企画もあって頑張っていた(この企画は、体育祭が校外の桜宮公園で実施されていたから残念だがあきらめざるをえなかった。のちに阪大で自治会の副委員長をしていたとき、大学祭の前夜祭で、私が企画して盛大なファイアー・ストームを実現させた)。ところが学校として、リクレーション種目をなくして「体育祭」ではない陸上競技大会のような「体育大会」としてやることになった、と階段教室での代議員会で神谷先生から報告があった。生徒側が「体育祭は生徒会主催行事であり、一方的に内容変更は受け入れられない。学校は再検討する余地はないのか?」と問うと「その余地はない、決定事項だ」とおっしゃるので、決裂した。楽しい「体育祭」の伝統を私たちで途絶えさせてはいけないと執行部で議論し、生徒会を無視するのなら、それなら私たちの力を示してやろうということになり、密かに体育大会ボイコット運動に動き出した。生徒会では一方で準備している振りをしているが、体育大会当日生徒は体調不良などを理由にして一人もやってこない状況を考えていた。ところがこの動きが生徒に広まるにつれて、学校についに情報が漏れてしまった(百姓一揆の情報漏れはどのように防がれたのだろうか!)。体育大会の5日前に、二人が井町先生から呼び出しを受け、すぐに家庭で謹慎して待つよう通告され、その翌日母親と共に呼び出され、

1.体育大会ボイコット運動で秩序を乱したこと
2.大高連結成の準備に関わったこと
3.デモ参加や原水爆禁止世界大会に参加など学外の政治活動に関わったこと
を処分理由にして、高等学部長立ち会いの下、指導部長の井町先生から

 1.10月1日から15日間の停学処分
 2.今後、校外組織との接触の禁止と一切の政治活動の禁止
3.今後、学校の指導に従う
という誓約書の提出が二人に告げられ、私に対しては
4.特待生の資格の剥奪が加えられることとなった。

 井町先生は、特待生資格を取り上げることで、私が学校を続けられるかを、非常に心配して下さった。職員会議でも多分、強硬に反対していただいただろうと想像するが、もっと大きな力が働いていたのだろう。授業料は兄にすがることでなんとか学校が続けられることとなったが、この処分で我が家はえらい窮地に陥った。だが不思議なことに、母は私を全く叱りつけなかったが、私の将来に悪影響が及ぶことを非常に心配していた。毎日反省の日記をつけて提出するよう言われていたが、この処分は学生運動・原水禁運動に対する政治的処分であると私も怒っており、校則遵守の誓約書は出しても、反省日記は書かなかった(学校にたてついたから処分するのはいい。だが原水爆禁止運動に対する処分は全く許せなかった)。処分解除の数日前になって反省日誌の提出を命じられたが、「書いてないし、出さない」と言うと、「それなら退学してもらうしかない」と言う。学校をやめて大学入試資格試験を受けても1年以上のブランクが出来てしまうと、大学に行かしてもらえなくなるので、悔しかったが仕方なしに、今の心境、原水爆禁止運動に関心を持つきっかけ(核廃絶は日本人の悲願であって尊い闘いだと主張して、中学校で信頼する先生から原水爆禁止運動が起こったいきさつなどを聞いて、社会運動に関心を持ち始めたことも書いた)、これからは受験も5ヶ月後に控えていて勉学に励むつもりであること、などを書いて出したら、復学が認められた。

 卒業後、出身の生野中学校に大学合格を報告に行ったときに、先生方がざわめいた。その訳を聞くと驚くべきことを知らされた(その頃、1学年に700名いた生野中で一番優秀な生徒10名くらいが天王寺高校へ進学し、2番手の男子(私もその中に入っていた)は生野高校、女子は勝山高校へ進んだ。生野中出身者で天王寺高から現役で阪大に入ったのは2名。生野中で3年間いつも成績一番だった木村潤君は高2で自死した。家庭教師をして夜、家に帰ったら朝日新聞の夕刊で大きく報じられていた。天王寺高校でも成績優秀で、学年で10番台だったが、それ以上に成績が伸びないことを苦にしたためとあった。林寺小学校の同級生でよく家にも遊びに行っていたから、もう夜の10時を過ぎていたが、弔問に行った。みんなが帰った後で、私一人で遺体と対面した。小学校の先生をしておられたご両親は取り乱してはおられなかったが、深い悲しみに包まれておられた。元気な私を見られて、悲しみが増されたみたいで、これは最大の親不孝や!私は親より早くは死んではならないと心の深いところで決意した。生野高校から阪大への現役合格者はゼロであった)。

 私が反省文に中学校の先生のことを書いたことで、生野中学校が生徒に左翼思想を吹き込んでいるという理由でだろうか、処分の翌年の追高の入学願書受付で、生野中学校からの受験生全員が拒否されたという。中学校でも先生の組合でも大問題になったらしいが、どう収拾されたか私は知らない(井町先生は、戦後の教育の民主化で、教育委員長の公選制が実施された時、豊中で立候補された。が日教組の推薦候補に破れたという経緯があったためか、日教組には批判的であった)。生野中からは温厚な今津さんも来ており、全くの思い違いもいいところだが、権力者として学校が動くとき、恐ろしいことをするものだなあと思った。この中学校への制裁処分の不合理は、もし私が大学で学生運動などで問題を起こした時、例えば大阪大学が高校教育に責任があるとして追高生全員の受験を拒否したらどうなるかを考えたらいい。だが処分という場面で、自分を語るとき、自分が一番大事に思っていたことを軽率に書いてしまって、多くの人に迷惑をかけたのは未熟な自分の責任だと大いに反省した。

 体育大会は主催者となっている生徒会の中枢がボイコット運動に関わっていたので、生徒会主催では実施できなくなり、この年度は学校主催行事として実施されたという。

 生徒指導部長としても厳しく生徒に対面せざるを得ない井町先生と政治的な立場、おかれた社会的な立場で厳しく対峙する場面もあったが、私生活では、私のことを非常に心配してくださっていた。私の生活の窮状をよくわかっておられて、奨学金を受けられるようにしていただいたり、勉学をあきらめずに頑張るように常に励まし続けて下さったのも井町先生である。卒業後、大学院に進んだ私が、追高の茨木学舎の物理の非常勤講師でお世話になるときも力になっていただいた(私は2年間お世話になったが、私に続いて中野君も物理の講師で来た)。そこで世界史の先生をしていた女性と結婚することになったときに、大学闘争の影響もあって、非常勤講師の組合を作ったりして学校と摩擦が起こって私の立場が悪くなっていた時だったが、ご夫妻で仲人を引き受けてくださった(式兼披露宴の司会は中野君がしてくれた)。

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2年生の時の新聞部員。安藤さんの映画談義で部会はいつも盛り上がっていた。先輩の卒業アルバム用写真

 上に書いた先生以外にも、1,2年生で新聞部の顧問をしていただいたユーモラスな織田先生、3年で新聞部の顧問として指導して下さり、3年の部員全員をクリスマスに鴻池新田の自宅に呼んですき焼きをごちそうして下さった崎山先生、物理の授業で理論だけでなく演示実験を工夫していっぱい見せて下さった内田先生(教師になってわかったが、ちょっとした演示実験でも、材料の調達、予備実験で1週間かかることもある)、2年生で福井さん・稲田・藤原・高瀬君らと創部した政経部の初代顧問を引き受けて下さり、難題を持ちかける私たちと学校の間で板挟みで苦労をされたであろう川俣先生(私は踏切で機関車が引っ張る長い貨車をなんとなく数えるが、その時必ず川俣先生を思い出す。戦前の特高が、貨車の台数を数えていた人を、敵に情報を売るスパイとして連行した、という実話・・これは権力者がどれだけ国民を信頼していなかったかを示す話だが、授業で聞かせていただいたからだ)、山添先生、神谷先生、橋本先生はじめ諸先生方の思い出が一杯あるが、もう紙面も尽きたので筆を折るとする。

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3年生のクリスマス。新聞部員が崎山先生のご自宅で。

 種々こんなわけで、私が追高と出会っていなかったら、私の人生は、全く変わったものになっていただろうと思う。一方私のために迷惑を受けた方も多くおられると思うが、人生袖ふれあうも何かの縁、と思ってお許し願いたい。

 それにしても、高校3年間、たったの3年間だが、私の、人生の中でどっしりと心の一番大事なところに収まっている。私をつくって下さった先輩、級友、先生方に深く深く感謝している。これからもおつきあいをよろしくお願いします。(この文章を書いて後、1週間は私の頭の中は追高一色になっていた。)



あとがき < たかが文集・されど文集 >

 追高卒業50周年・古希同窓会の開催を知らせる案内状を、皆さんに送る作業をしていたのは、7月17日、女子サッカーのドイツ・ワールドカップで、なでしこジャパンが、これまで勝ったことのないアメリカと決勝戦を戦っているテレビ中継中でした。
 同窓会に大勢の人に参加して欲しいけど、遠方の人もいるし、当日のっぴきならない用事で参加できない人もいるし・・、一方で私たちの体力も弱ってきているし、病床に伏す人も増えるだろうし、この同窓会が盛大に開催できるのもこれが最後になるかも知れないとふと思いました。

 同窓会で集うのは、元気なことを喜び合い、近況を語りあい、今後の生き方の知恵を交流し、思い出話で友情を確認するそんな場が心地よいからだと思います。それなら、遠方の人も欠席の人も、ちゃんと交流できるようなことがないだろうか、と思うと一瞬にひらめきました。「記念文集」を作ったらいい。うーん、だけど作るとなると、膨大な作業量です。高校で生徒文集を多く作りましたが、福祉や人権の講演を聴いたり、授業でオッペンハイマーの映画を見せて、その場で感想文を書いてもらうと、すぐに感想文が集まります。載せるのを選んだり、助言して一部書き直させたりしますが、まあ原稿が集まっているわけです。さあ、古希の人に、人生のことや、高校時代のことを書いて下さい、といって書いてくれるだろうか。原稿が集まったとして、ワープロ打ち、写真選び、レイアウト、印刷原稿造り、印刷、紙折り、製本の作業で、これまでの経験では50〜80時間かかります。うーん、と思ったとき、なでしこジャパンの、この女の子らも頑張ってるやン、えいっと決断したわけです。そこでメールでみんなに「高校時代とその後の人生」というテーマで文集作ろうと思うんやけど、どう?」と聞くと、数人の人が応えてくれて、賛否半々。「そんなん言うても、書く人はほとんどおらんで」という人、「自分の人生は人に語るほどのものでもない」という人、一方で池田君が、そのテーマでは書きにくい、何でも書けるようなテーマにして、タイトルを自分でつけるようにしたらいい、と助言をしてくれ、河井・松居・内藤さんが賛成してくれて、スタートした次第です。

 河井君が本格的な「自分史」を、青山君が白血病と家族のことを投稿してくれて、いい滑り出しだったのですが、原稿がなかなか集まってきません。自分は「母の葬式で考えたこと」というテーマで私と母のことを書きますと、皆さんに言っていたのですが、いざ書こうとしたら、書けないのです。
そこで苦しいので、方向転換して「何故書けないのだろう?」と考えました。
そしたら、わかりました。「何のために書くか、誰のために書くか?その目的というか、意味付けが自分として、はっきりしてないのだ!とわかりました。

 私の母が2年前の8月に93才で亡くなったのですが、私の子供には私や妹の出生にまつわるややこしい話を一切していなかったのですが、それに関わって一家は大変な苦労をしてきました。母が亡くなって、このことを忌まわしいこととして封印してしまうか、それともそれを白日の下にさらして、一発大逆転して、そんな苦労の中を母子で励まし合って生きてきたことを一番大事な宝としようという宣言の場にできるか、兄と相談して腹をくくリました。通夜で挨拶した兄に代わって葬儀では、母と一番長く一緒に暮らした私が親族代表として語ることになりました。この時は母のことを語る目的ははっきりしていました。子供や孫にこのすばらしい母(祖母)がいてみんなの命があって、苦難を母子が手を携えて乗り越えてきたことを倉田一統の一番大事な宝としよう、ということを伝えることでした。だから腹をくくって語りました。(この時語った内容を文にしたのがありますので、読んでやろうという人は読んでください)。要するに「何のために語る(書く)か?」です。多くの方が、何のために誰のために書くのかで当惑されていたように感じました。

母・倉田こずゑ 米寿の頃、高槻市富田の三輪神社での桜祭りにて娘や孫と演奏

 酒井先生の文章を見て、若い人と違って、私たちはもう人生収斂の時期を迎えています。死ぬ準備をする時期です。中野君が亡くなったのもショックでした。もう死んでいくとして、そういう位置で、自分の人生を振り返るとしたら、人生良かったと思えるか、しょうむなかったと思うかです。いいこともあった、悪いこともあったという考え方もあるけど、では総体としてどっちか?と考えるでしょう。人生の値打ちは、自分がそうならなかったからかも知れないが、社会的な地位がなんぼのものか、大金持ちがどうしたんや、と思っています。人生の値打ちは、どんだけいい人間関係を作ってきたか、死ぬときに、ありがとうって思ってその人の顔を思い浮かべられる人が一人でもいてるか?二人いてるか?その人数が多い人が幸せな人って事になるのではないか、と思いました。そこで自分の高校生活でもいろんなことがありました。もつれた糸のようにまだ整理できていないこともあります。しかしいくら関係が良くない人でも9割が悪くても残り1割がいいわけで、9割が悪いから全部悪いって捨ててしまったら、損かも知れません。そんなわけで先生方とのからみで、プラスに評価できる部分はないかを考えよう、と気がついたわけです。題して「私をつくった先生方」。書く目的は「いいつながりがたくさんあったことを確かめるため」です。そう決めて書き始めたら先生を通して自分のこと、友達のことが芋づる式にでてきて、おもしろかったです。自分を語るのは難しいですが、人との関係を語るといつの間にか、自分を語っていることになるというのは、大発見でした。そんなわけで私の書いた長文を読んでくれる人はあまりいないでしょうが、皆さんも高校時代の苦い思い出とともに、一杯いいつながりがあったことを思い出して下さり、それを共有財産にするために、文章に書いたり、お話をお聞かせ下さい。10月15日にお逢いできるのを楽しみにしています。投稿いただいた酒井先生、山本先生初め皆さんに御礼申し上げます。助言いただいた、老後の生き方を私もしっかり考えていきたいと思います。(倉田維)