倉田維晴/私をつくった先生方

70年歩んできて今思っていることなど

追手門学院・高等学部9期生・1組 2011年10月15日発行

卒業50周年・古希記念作文集から

 70年の人生で僅か3年だが、濃い中身だったと思う追高時代を振り返ってみる。
 私の家庭事情は少し複雑で、父が敗戦2年後の4才の時に亡くなり、4才上の兄と9才下の妹の貧しい母子家庭で、母は必死で働いていたが、兄と私も幼い頃から新聞配達などで働いて、家計を助けるという生活を営んでいた。
 家から東に歩いて1分の所に府立生野高校があったが、公立高校の授業料の納入もしんどい家計状況なので、特待生の制度によって追手門学院に入学できた。そこで私の人生を決めるほどの影響を与えた級友や先生、先輩、後輩に出会った。先輩では、敬称略で、金一・亀山・福井(関学の経済を出て追手門学院大学の教授になられた)、級友では、高瀬・稲田・中野・河井・藤原・傍士など、後輩では奥田・木谷など多くの人たちである。

1年生夏休み中の真田山での水泳訓練。私(倉田維)はこの時初めて泳げるようになった。上野さんや森下さんなんかはイルカのように泳いでいた。サッカー部の安井君は堂々としていて先生のように見える。杉原先生の前の私は、中学生のように、おぼこい。

 先生方には、生意気盛りをいいことに食って掛かったことが多々あり、皆さんは腹が立っておられたと思うが、優しく的確に対応していただき、私の成長に寄与していただいたと深く感謝している。今も時々思い出す先生方との、印象に残っている出会いというか、ぶつかりを記して見たい。

藤田先生(化学):

3年生の時の化学部 2年は藤原君、3年は私が部長。

 わかりやすい丁寧な授業で、生徒実験も多くしていただいて、科学&化学の面白さを教えていただいた。授業開始後すぐに傍士・藤原・中野君と一緒に化学部に入れていただき、薬品も一杯利用させていただいた。
 中野君とはその後、永いつきあいになるが、彼は大阪大学の工学部・電気工学科に入学、卒業して、大阪大学大学院基礎工学研究科・生物工学専攻に進む。当時全共闘運動の真っ最中で、大阪大学でも「ベトナム反戦・権力者の大学から人民の大学へ」をスローガンに掲げて闘われていた。倉田は理学部で、中野君は基礎工学部で大学院生であったが、豊中キャンパスの理学部と基礎工学部大学院性3名で、教養部の無期限ストライキを支持する、というビラを配布したのが大学院生の戦いが広がる契機となった。卒業後その研究室の教官で助手をしておられた奥様と結婚し(杉原先生も参列された結婚披露宴は私が司会をした)、スエーデンの医療機器を輸入販売する会社に就職した。大学医学部との共同研究の中で自分もドクター資格を取る必要を感じ、35才ごろ会社をやめ、医学部に入り直し、40才を過ぎて医師免許を取った。その後阪南市民病院など泉南地区の大病院の内科の勤務医になり、2006年頃に和泉中央駅近くに念願の「中野内科クリニック」を開業した。

    泉南市の白井病院の内科医の頃の中野君

 その頃中野君はかなり悪化した状態の大腸がんが見つかり、手術した(4年前のクラスの同窓会の時には彼は入院手術中だった)。後の経過は良好だったが、その後身体のあちこちに転移してこの2011年7月に亡くなった。

 化学変化は見た目にもダイナミックで、理論だけでなく実際に実験する大事さ・楽しさを学んだ。
 実は、私の兄は家から西に歩いて3分の大阪市立生野工業高校の機械科を卒業して松下電器に入っていたから、私も工業高校に進んで、すぐに働くことになっていた。ところが、母の兄が布施で薬局を経営していて、「医薬分業」という時代の流れで「医者は診察、薬は薬局」と任務分担することが政策として出されていた。薬局が医師と提携する必要がある、と判断した伯父が「倉田一族にも医師が欲しい」と考えて、たまたま中学校の成績が良かった私にその矢が当たって、医師になるために普通高校へ行くことになった。いざ入学してみると私の興味関心を引きつけたのは、生物学ではなく数学や物理・化学であった。先ず私の心を奪ったのが藤田先生であり、次が岩田先生・内田先生・杉原先生であった。医師を望んだ伯父は残念がったが学資の援助をしてくれた訳でもなかったので、最後は私の好きなようにさせてくれた。この伯父さんが「倉田一族に医師を一人!」と言ってくれなかったら、私は普通高校には来ていない。

横田先生(生物):

 1年生の秋の生物の授業のときに、いつもになく先生が興奮されている。皇太子が始めて民間のお妃・正田美智子さんと婚約したと報じられた日、「ノートの端にそのことを記念に書いておくといい」と言われた。私は書いたかどうかは忘れたが、その後、クラスの皆川さんや竹林さんが、美智子さんの出身大学に進まれることになった。
 天皇については小学校4年だったと思うが、担任の先生が、ある日新聞を持ってきて、古風な身なりの人の写真を掲げて「この人が誰か知っていますか」と尋ねた。みんながハイハイと手を上げた。みんなが知ってることで私が知らんことはないだろうと恐る恐る手を上げたら、運悪く当てられた。「聖徳太子!」って答えたら、先生が凍りついた。平成天皇の成人の儀式(立太子儀)の写真だった。当時極貧の生活で、新聞もとっていなかったから知る由もなかった。天皇制と私の折り合いの悪さはこのときから始まったらしい。新憲法下でも、その心に「天皇」を保っておられて、皇室の慶事を自分の喜びと感じられる先生もおられるのだなあと思った。教壇でそのことを話されたのは私にとって、お二人目であった。
 生物学は分類学のような定性的分野だけでなく、定量的な実験をやって研究する分野もあることを知った。

酒井先生(日本史、3年の担任):

 先生の授業は、史実を丹念に追った緻密な授業だった。歴史上の人物の姿をリアルに語っていただき、歴史は面白いなあと知った。歴史を変える人たちの意気と民衆達の動きがあいまって、ダイナミックに展開することを教えていただいた。私は当初、京都大学(私の事情ある父は京大・理学部卒であった。私が生まれる以前は、当時造幣局の北にあった市立桜宮高等女学校<今の桜宮高校>の校長をしていた)を志望していた。入試で理系の生徒も、社会として日本史と世界史の2科目の試験科目があった。先生の授業に触発された私は、日本史がおもしろくなって、良く出入りしていた学校の図書室で、岩波書店の「岩波講座・日本史」を第1巻から読み始め、全20数巻を読み通した。その後は「京大・日本史」全15巻を読んだ。3年生の受験勉強では、単なる受験勉強ではなく、「学問に触れる」という気持ちになれたことは嬉しいことだった。実は、私の大学受験については、兄から2つの条件がつけられていた。一つは、家計から大学入学金・授業料の支援がほとんど出来ないので、私学受験は認めない。したがって国公立の受験に限ること。二つは、上と同じ理由で、もし受験に失敗したら「浪人」出来ないこと。高卒として働くこと、もし希望するなら、働きながら夜間の大学に進んでも良い、ということだった。そんなわけで学問に触れられるのはこれが最後かも知れない、という気があった。そんなわけで、受験校の最終決定の時、井町先生に「京大は、その日の出来で合否半々、阪大は可能性大」と言われ、阪大にしたという経緯がある。
 先生には3年生で政経部の顧問をしていただいたが、政治問題に活発に関わろうとしていた部員に比較的おおらかに活動を許していただいて感謝している。

中川先生(世界史):

 先生の世界史の試験問題はすべて記述問題で、1組のクラス平均点は30点台だったと思う。自尊心の強い1組の生徒たちの困惑というか怒りがあって、カッコ内に文字や年代を入れるような簡単な記憶問題に変更してくれるよう要望が出されたが認められず、「歴史で大事なのは細切れの知識ではない。それぞれの時代を作った力、それを変える原動力のせめぎあいでダイナミックに歴史をとらまえることが歴史学習の意味だ」と伝えようとされていたように思う。先生は、特攻隊として出撃を待つ間に終戦(敗戦)になったと伺った。その頃のことはあまり語られなかったが、軍国青年だったそうである。その無責任極まる戦争指導者に踊らされた自分自身への自戒もあってか、暗記物ではない歴史学を目指されているのだろうと思った。先生の授業で、歴史は知識でなく、自分たちが生きているこの時代をどう生きていくか、を考えるための一番基礎となる教科だと思った。クラスで先生の授業を一番心待ちにしていたのは私であった、と自負している。先生は私が人生で出会った先生方の中でもっとも敬愛する先生のお一人である。
 先生の言葉で一番印象に残っているのは「歴史は一直線に進んでいくのではない。螺旋を描いて進んでいく。」という言葉だ。これは、輝かしいフランス革命のあと、その成果を捻じ曲げたナポレオンの皇帝即位、さらに市民革命の波及を恐れる周辺の絶対王政国家によるウイーン反動体制などのところで熱をこめて語られた。ひとつひとつの事件は歴史の逆方向に見えても、確実に歴史は進んでいる・・。歴史の進む方向、それを私は一人ひとりの人間の尊厳を大切にする社会の実現と思っている。自分もその社会発展に寄与して生きていきたいという気持ちに確信を持たしていただいた。ソ連圏崩壊後のブッシュのアメリカのような、市場原理主義経済というハイエナ資本主義は反動の典型であると思う。
世界史は文章記述が苦手で、いい成績はとれなかったが、大好きな教科だった。

中村先生(倫理):

 1年生の一般社会だったか、倫理社会の授業があった。パスカルやカントの思想の関連で、「観念論(唯心論)」と「唯物論」の違いを述べられて、結局は「心が大切か?物が大切か?」というようにまとめられた。生徒にどちらの説に賛成か、と挙手するように言われた。心と物の比較で、物が大切だ!なんてそんな馬鹿な思想があっていいんか!と思った。それでも誰だか忘れたが勇気をもって、唯物論に賛成だと手を挙げた人がいた。2年生になって、社会主義思想に触れるにつれて、その両者の思想の違いは「人間の行動や人間同士の諸関係を規定するものは人の観念か、あるいは生産関係のように物質的な諸関係であるか」の違いであることを知った。共産主義の創始者のカール・マルクスは敬虔なクリスチャンで、産業革命後の資本家の搾取により悲惨な生活にあえぐ労働者に、人間的な尊厳を回復するために、物質生産を巡る権力関係を革命という形で逆転させる必要がある、と説いた。「人間の意識は物質的諸関係に規定される」というのが唯物論である。心が大切だという点でも唯物論が勝っていると今の私は思っている。太平洋戦争での日本人戦死者は東京大空襲・原爆死者も含めて310万人と言われている。歴史学者の半藤利一氏によれば、そのうち軍人の死者212万人、そのうちのなんと7割が戦地での餓死者という。敵と戦って死んだのではない。大和魂という観念論でなんという人命軽視かと思う。
 思想的な違いがあったが、思想に興味を持たせていただいたのは、先生のおかげである。背筋をきちんと伸ばして歩かれる姿が印象的で、「心正しく生きて行きなさい」とメッセージを発しておられて、私はそのメッセージをきちんと受け止めたいと思った。

神楽岡先生(現代文):

 2年生の春、現代国語の教材で、島崎藤村の落梅集「千曲川旅情の歌」があった。中間考査の問題でその解釈の問題が出た。私は一生懸命考えて書いたが、ほとんどがバツだった。そこで答え合わせのときに挙手して質問した。「この詩の解釈で、僕は一生懸命考えて回答したのに、先生はそれを間違いと一方的に決め付けているが、客観的な根拠があるのか?」先生の答えは明確だった。「国語の試験で、あなたの考えや意見を求めることはほとんどない。この詩の価値や作者の考えについていろんな意見があるとは思うが、それは出題の範囲ではない。国語では作者が言わんとしていることを、どれだけ正確に読み取れているかを問うているに過ぎない。作者が考えていること、伝えたいと思っていることがきちんとある文章を教材に使っているので、答えもひとつである」というものでした。先生は、答案はバツだけど、本当に大事なことは作者の伝えようとしていることをきちんと理解したうえで、君の言うように、自分の意見や感性を作っていくことだ、と言っていただいたと思った。それまでは国語という教科の位置づけがわかっていなかったが、これ以降、国語はあまりいい点はとれなかったが、私の好きな教科になった。
 先生にしかられたこともある。これも2年生の頃と思うが、作文の課題が出された。「私の幸福論」を書いて提出することであった。自分にとって、幸福を語るのは簡単ではないなあという気持ちもあって、図書室によく行っていて親しかった司書の池上さんに「幸福論ってかなわんなあ、なにか参考になる本がありませんか?」って相談したら、ヒルティの「幸福論」を推薦された。彼女は敬虔なクリスチャンで、この本はキリスト者の幸福感はこうである、という内容で、キリスト教に触れたことのない私にはえらい難解であった。自分で考えることを放棄して、自分の手に負えない本に向かい合ったものだから、もう大混乱してしまって仕方なく、その本の要約を提出した。すると先生は授業で、「自分の意見でなく、他人の意見をそのまま書いた人がいます。申し出なさい」と言われて、すごすご謝りに行った。私がえらい恥じていたからか先生は、はい、とおっしゃっただけだった。先生とのこの二つのことは、しょっちゅう思い出す。

岩野先生(古文):

 1年生で古文を教えていただいた。大阪大学・国文学科の出で、やさしい先生であった。宇治拾遺集で鼎かなえをかぶって踊る法師の話があった。私たちが集中しないでざわざわしていた時に、黒板いっぱいにさぁっと、この状況の絵を書かれた。私たちは見る間に静まって黒板に見入った。先生の優しさに付け込んで、初夏のさわやかな日には、大阪城の芝生の上での野外授業をねだったりして実現したが、他のクラスもやるようになって、できなくなった。先生は、「航跡」という学校誌の担当で、授業で詩や随筆や短編小説を投稿するように言われた。先生が好きだった私は、頑張って私の日常を短編にして投稿した。当時私は1年生なのに中学校3年生の私学受験生の家庭教師をしていた。多分母が、特待生で高校に入ったことをあちこちで自慢話をしたのだろう、それを聞いた人が自分の息子の指導を頼んできたらしい。週に3日今里駅の近くに行き全科目を教えた(この生徒は翌年無事に、興国高校に合格してくれた)。

       高校1年生の時、今里の家庭教師先の家で。

私は小学校の3年生から中学生の兄の新聞配達を手伝い、4年生からは一人で新聞を配るようになってから、家計を助けるためにずっと働き続けてきた(中3の9月からは医師を目指して普通高校に行くことになったから、受験勉強させて欲しいと願ってやめさせてもらった。私の小・中学校時代はこの新聞配達と幼い妹の子守と母の内職の手伝いで大半が占められていた。小4の孫を見るにつけ、この年で家計のために働いていた自分自身がいとおしく思える)。今と違って日曜も夕刊があり、新聞休刊日は正月、こどもの日、春分、秋分、勤労感謝の日くらいしかなく、朝は4時半から起きて、夕方は4時になったらどんな遊びもやめて新聞店に行く。そんな生活を6年間続けてきた。私は低血圧で朝、起きられない。でも母親は「まさはるちゃん、皆さん、待ったはるよ」と起こす。もう少し寝かせてとせがむ。ある日、私を起こす母親の目に涙を見つけて、私は、子供も辛いが、わずかの給料ではあるが、生活費のために小さい子供を起こす母親ももっと辛いかも知れないと、だんだんと思うようになった。この母の涙に気付いたことが、この後の私と母の結束の絆となった(母は琴の師匠、自動車整備工場の掃除婦。化粧品のセールス、内職などで必死に働いていた)。

   新聞配達をしていた小学校4年生頃、妹と(生野児童館で)

朝日新聞を配っていたが、配達区域は生野区なので在日韓国・朝鮮人も多く住まわれていて、級友も住んでいる地域であった。生活保護は受けていなかったが、中1の担任の先生が教育扶助を受けるよう申請してくれ、教科書や学用品を支給してもらっていたが、その世話をしていただいた事務室のお姉さんが配達区域に住んでおられて、「よく頑張ってるね」と声をかけて下さって、そんな風に自分を見てくれている人がいることを知ってうれしかったことを覚えている。小学校4年生頃、朝刊を配る早朝に、朝一番の電車で仕事に行く夫を送り出す一人のおばさんと出会った。そのおばさんの顔の左半分にはものすごくひどいコブになった火傷跡があり、私はそのおばさんの顔を怖くて正視できなかった。それでも何度かお会いするうちに、挨拶をするようになったが、不思議なことに新聞少年の私に時々、あめ玉をくださるようになった。そのおうちは子供さんがおられなくて、貧しい様子で新聞も取っておられなかった。「女の人なのに顔の火傷はどうされたんだろう?」「・・なんでぼくにあめ玉をくれるんだろう?」と私の胸に疑問として残った。小学校の6年生の時(1954年)、自分の配る新聞でアメリカが中部太平洋で原爆や水爆実験(原爆の100〜1000倍の威力)を繰り返していること、そして何回目かのビキニ環礁での水爆実験の時、日本の何百隻ものまぐろ漁船が死の灰を浴びて被曝し、静岡県焼津港からの第5福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなった記事を読んだ。それをきっかけにして東京杉並の主婦たちが「原水爆実験の禁止・核兵器の廃絶を求める」署名運動に立ち上がり、あっという間に日本中に、世界中に広まった。実は広島・長崎に原爆を落された私たちがアメリカ軍からの報道規制などの抑圧をはねのけて、初めて世界に、広島・長崎の被害の実態を伝え「これは許されないことである」と大声をあげたのだ。広島・長崎の報道を目にして、私にあめ玉をくれたあのおばさんが、きっとあの原爆で私くらいの歳の男の子を亡くされたお母さんにちがいないと電撃のようにわかった。私の母が私達子供に希望を託して自分を励まして生きているのに、その宝の子供を原爆で奪われたであろうそのお母さんの苦しみは自分の顔の火傷も相まって、いかばかりだろうか?このおばさんとの出会いが私が腹の底から核兵器を憎む原点になっている。

 高校入試で一時中断した私のアルバイトが、高1の7月から再開した。新聞配達の2倍の謝礼金をもらった(そのお金は家計にではなく、定期代や昼食代・参考書・本の購入に使わせてもらえた。家庭教師は高校3年になって自分の受験勉強のためにやめたので2年弱やったことになる)。その家庭教師にまつわることや日常の生活で考えていることなどを「航跡」の原稿に書いた。先生が、なかなかいいとほめてくれて、助言をしてもらって、一部書き直しをして掲載してもらった。こんな生活苦の中でも、けなげに生きていこうとしていると思って下さったのだろうか、先生は上級生になって授業を担当されなくなってからも、廊下で会うと「頑張り過ぎたらあかんで、無理せんようにしいや」と声をかけて下さっていた。そんなことで岩野先生が私の一番の理解者だったと自分勝手だがそう思っていた。3年生のときに先生がご結婚されて、それを学校新聞にのせるために新聞部員として西成区の千本の自宅へ取材に行って、ご馳走していただいた。先生が好きだったので古典も得意科目になった。
 先生が亡くなったとき、嫁さん(その頃、追高茨木の世界史の先生をしていた)と一緒にお通夜に行ったとき、奥様に、先生との思い出を語られる弔問の方が大勢おられたのが印象的であった。

  新聞部員として、新婚の岩野先生宅を訪問

岩田先生(数学):

 私は申し訳ないが、数学の授業はほとんど聞いていなかった。というのは、数学の教科書はわかりやすく記述されており、中学校の頃から、「数学は教科書の予習で、教科書の隅から隅まで完璧にやる」という主義でやってきた(参考書を買ってもらえなかったのもある)。私のこの予習ノートは友人達から、良く見せてって言われた。私の家庭学習の時間の大半はこの数学の予習に当てられた。授業の進度より1週間ぐらい前を進んでいたから、授業内容はほとんど理解していた。自分で解らなかった所は印をしておいてそこの所だけはきっちり聞いた。そんなわけで授業中も一人で教科書のだいぶ前を一心不乱に予習していた。先生はそんな私を知っていて、黙認してくれていたように思う。特待生の入試の時、数学だけには自信があったのに、解けない難問題が一つあった。それが岩田先生の出題であったことがわかり、私の中では難問=岩田先生ということになった。そんな先生の出した問題は、全部解いたるでぇ・・というのが私の数学学習の意気込みだった。特待生の間でも数学の点数にはこだわって競争していた。そんないい緊張感もあって実力がどんどん伸びていった。授業はみんな集中して受けていて、先生の迫力に圧倒されていた。その迫力の先生に異議申し立てした人がいる。出羽君だ。言い分は出羽君に正当性があった。が先生が以前担任されたであろう卒業生への思いが伝わってきて、先生は現在のにしろ昔のにしろ生徒へのやさしい心遣いをされている熱い先生である、ということがわかった出来事でもあった。

高1,宝塚の六甲遠足

 先生の授業はすごいスピードで、3年生の秋にはもう教科書を終わっていた。その後、先生の発案で「解く実力問題を各自考案して、みんなに提示する。それを全員で解く!」ということになった。自分もオリジナルの問題を考えようと思って頑張ったが、生やさしいことではなかった。いろんな問題をくみあわせた問題でお茶を濁した。私も教師になって、高校入試で実験の実技試験の問題を作成するときなど大変だったが、どこにもないオリジナルのいい問題ができたときは、人には言えないけれど、うれしいものだった。

 岩田先生には2年生秋の修学旅行で大層お世話になった。この頃、追高の修学旅行は北海道と決まっていたが、北海道を襲った直前の台風被害で、北海道旅行が不可能となった。修学旅行が中止になるかも知れない、と聞き、えらいこっちゃなあ、と思っていた。そこを山男で野外活動のベテランの岩田先生を中心に学年の先生が奔走してくれて、急遽、東北修学旅行となって実現した。今年大津波に襲われた松島、白虎隊の会津若松、今年世界遺産に指定された平泉、宮沢賢治の花巻、奥入瀬渓谷、十和田湖どれも印象深く思い出に残っている。この修学旅行で皆さんに迷惑をかけた。旅行の実行委員だったのに、途中でぜんそくの発作がでた。秋になる頃に時々でるのだが、そのきっかけは、気温の急な下降やハウスダストのこともある。初めて発作が出たのは、小学校の4年生、猫の毛をたくさん吸い込んだのがきっかけだったが、そのいきさつは、悲しすぎてここでは語れない。この時は枕投げのホコリと東北の気温降下のためかなあと思っているが、布団部屋のようなところで、一人で静かに寝かせていただき、養護教諭の西村先生を初め皆さんにやさしく介抱していただいた。

杉原先生(数学):

 先生の思い出は、語り尽くせない位いっぱいある。京大の理学部・宇宙物理学科の出で、数学の話以外にも、物理のこと、科学者のこと、ドイツの原爆開発に対抗するとして始めた米英の原爆製造計画(暗号名マンハッタン計画)、関わったノーベル賞級の物理学者数万人を指揮して成功に導いたオッペンハイマー(ユダヤ人でアメリカ共産党のシンパだった)のこと、天文学のこと、先生が京大生として関わられた学生運動や1953年の京都の荒神橋事件のこと(嫁さんの10才年上のイタリア文学者のお兄さん・藤沢道郎さんがこの事件で逮捕されたという。生きておられたら80才で杉原先生はご存じかも知れない)など私たちを子供扱いしないで、一人の人間として扱っていただき、メッセージを一杯いただいた。この先生のような生き方がしたい、と思うようになり、いつの間にか、物理の道を進むようになった。
 高3の正月、生駒山の山上に京大の天文台があり、先生がその宿直当番のような形で泊まり込むことになったらしく、河井君や中野君らと寒い寒い中、生駒山を登り押しかけていった。真夜中、私たちの寝る部屋にごろっと転がっていた大型の重い望遠鏡を引き起こして、星を見てみようと河井君が言い出してやってみたがうまくいかなかった。彼の指導で混成3部合唱の練習もやった。
 先生の阪急宝塚線の山本駅近くの家ですき焼きをごちそうになったことも、卒業後に先生が兵庫農大に移られたときも例の特待生仲間と篠山に押しかけて泊めていただいて天下国家科学の未来を、夜通し語り明かしたこともあった。

杉原先生、岩野先生と.高2、青山高原遠足

 私は大学院の修士課程・博士課程の時も大学闘争で闘って大学に残れなくなり、研究者としての才能もあまりないことを自覚して、兵庫県の県立高校の物理教師になったが、先生が私たちに熱く語ってくれたように、自分が生徒に語れているかいつも自問する。オッペンハイマーは、原爆完成と、広島・長崎の爆発成功で英・米で英雄となったが、その後の冷戦下での水爆開発に、人道に反するとして反対したために、今度はソ連のスパイとて断罪されてあらゆる公職から追放された。彼は、必要なときは軍隊や政治に利用され、完成したら軍のものとして勝手に使われ、異議申し立てをすると犯罪者とされて、捨てられた。彼のことと、戦前の日本で極秘に行われていた原爆製造計画の記録(久米宏のニュースステーションで放映された)を、科学者の社会的責任を考える大事な教材として、3年の原子核エネルギーのところで特別授業としておこなっている。その授業の感想文「原爆製造半世紀・理系の高校3年生はこう考える」の残部があるので、希望者に差し上げますのでよければもらって下さい。

柴岡先生(英語):

 若さはつらつ、ダンディーの代表は柴岡先生である。背筋をピーンと伸ばして大股で歩かれていて、「君たちの心も見えてるでぇ」という風にきらきら輝く目で見つめられると、「はい、先生、頑張りますっ!」とつい言わされてしまうオーラの持ち主であった。「英語の文章の構造は簡単で、4つ(?)のパターンがあるに過ぎない。その目的語に関係代名詞で修飾する文が付いていたり、動詞に修飾する副詞句がついていて、見てくれが複雑になっているに過ぎない。それを整理するために、関係代名詞以下に[  ]を、副詞や修飾語には(  )をつけて、シンプルにしなさい」として、理系の生徒が多かった1組の生徒に親しみが持てるように、空気中の微粒子のホコリが、地球環境を守っている「ダスト」という教材で教え込まれたことを覚えている。その教育実践の研究授業で、大阪府下の多くの先生方が見学に来られることになり、私たちも先生を盛り上げようと密かに前日は特別に授業の準備をしたものである。

     高2,新婚家庭を訪問、左端は先生のお母様。

 高校2年生のとき先生が結婚された。京阪沿線の香里団地のご自宅に傍士君らと押しかけた。ピアノの先生をしておられていてお美しいと評判だった奥様を見せて欲しいというリクエストに抗しきれずにお招きいただいたのだと思う(新聞部の池田友紀子さんが写っているのでその取材を兼ねていたと思う)。その日フィギュアスケートをしている先輩も尋ねてきて、スケートに合う音楽のことで先生の助言を求めていたので、先生を慕う卒業生も多いことを知った。当時先生はハリー・ベラフォンテをお気に入りであった(結婚前にご一緒にコンサートに行かれた様子だった)。
 卒業してからも、私と中野君でご自宅を訪問したことがある。奥様とその妹さんのすてきなピアノの演奏を聴かせていただき、私も死ぬまでに一度ピアノが弾けるようになりたい、と電撃のように思った(この訪問はどうも中野君と妹さんを出会わす場のようであった)。45才頃に、ヤマハのクラビノーバというピアノタッチ(強く鍵盤を押すと大きな音が出る)の最初の電子ピアノが発売されて購入した。ヘッドフォンで聞いて音を外に出さずに練習して、「青葉城恋歌」がひけるようになって、それで満足して弾かなくなったが、もしこれができなかったら臨終の場で「一番に心残りは、ピアノが買えなくて弾けなかったこと」と言うだろうことは間違いなかったほどの願いだった。

中島先生・山本先生(体育):

 1年生の体育祭の練習で、「佐渡おけさ」「ちゃんちきおけさ」の民謡踊りと一緒に、フォークダンスがあった。整列して、中島先生や山本先生が、「はいっ、手をつないで!」と言っても誰も手をつながない。生徒達の抵抗もなかなかで、手をつなぐまで10分もかかっただろうか。この時、女性として意識して初めて手を握ったときの柔らかな手は、脳天を突き抜けるくらいの感触だった。

3年生、週に1回昼休みに本館屋上で生徒会主催のフォークダンス会を開催、20〜50人が集まった。

 私も教師になって、西宮にある県立鳴尾高校で“野外活動の倉田センセ”として、「ファイアー・ラリー」という学校祭の前夜祭で、廃棄された枕木(阪急電車から提供してもらった)を高く組んで火をたき、その周りでフォークダンスをする、という生徒会活動の指導をしたことがある。クラス練習が出来ずに崩壊状態になっていたのを若い先生と一緒に再建した。クラス練習の完全実施と「鳴尾スペシャル」の導入を行った。例年、オクラホマミキサー・コロブチカ・スピニングワルツという伝統のフォークダンスを踊ることになっていたが、「鳴尾スペシャル」とは、毎年生徒の人気投票で新しく選ばれたはやりの曲に振り付けをした創作ダンスのことである。各クラスごとに練習を義務つけた(練習しないクラスは参加できず見学することにしたが全クラス参加した)のだが、その指導者の指導から始めた。初めての練習で、手をつながせるのが非常に難しかったが、自分の高校時代の経験もあって困難の理由がわかっていた。普通ダンスでリードするのは男子ということになっているが、それは慣れた人の話である。一般に思われているのとは違って、男子は女子に対して非常に臆病である。とりわけ自分がスケベーであると思われたらえらいこっちゃと思っている。だから手をつなげ!て言われたぐらいで手を出したら名折れだと男子のほとんどは思っている。このことをみんなに言って、「そんなわけで男子はシャイだから、女子が先に手を出して下さい」と指示し「女子が手を出してるのに、手を出さない男は女性に失礼になる」と言うと、スムースに手をつなげるようになった。ファイアーラリー委員が指導者になるクラスの練習でも、手をつながせるとき、上のようにみんなに話させると、生徒だけでもクラス練習が出来るようになった。校庭の真ん中で3メートルにもなるファイアーの周りを3重円で1000名以上の生徒が整然と踊るこの行事は生徒達が心待ちにする行事になった。こういう指導が出来るようになったのも、追高でのフォークダンスの指導をしていただいた先生のおかげである。

兵庫県立鳴尾高校のファイアラリー。オクラホマミキサーを整然と踊る1000人の生徒。追高でもやりたかったが出来なかった。下校が夜8時頃になるので、保護者の参加許可を得て参加する。終了後、ロマンスの花も咲いて夜遊びしないよう、先生方で公園などの巡回も行った。

 体育は鈍くさい私には、かなわん教科であったが、それでも努力はした。マット競技の地上回転の授業の時、河井君なんかは颯爽とやっていたが、私はいくらやっても腰から落ちてどうにもならない。すると中野君が、「俺もでけへんねん。放課後練習させてくれるように先生に頼もうか?」と誘ってくれて、山本先生にお願いしたら、快く許可していただいた。出来ない連中3人ぐらいで練習したがやはりあかんかった(もう一人は傍士君か。藤原君は1年で少し病気療養した・・この時、天本さん、森下さん・上野さんらと住吉の自宅にお見舞いに行った・・ためか体育は見学が多かった。そのためか思索家の彼は成績優秀なのにクラスでは控えめにしているように見受けた)。河井君を連れて行ったら良かったと思ったが、地上回転はあきらめた。迫力のある巨体の山本先生の大きな目で見つめられて、にこっとされるとなんでも「はい!やりますっ!」と言わざるを得ない迫力であった。その対抗意識からか、先生のことを差別的なアダナでいう生徒がいて、これはけしからんと思ったが、「それはいかんで!」と直接に言ったことはない、意気地なしの私だった。学年の同窓会の幹事会でそれを指摘したが、皆さんにも考えて欲しいことである。

井町先生(英語・3年間の担任・生徒指導部長):

 先生には、担任として、生徒指導部長として、私に深く関わっていただいた。この私と高瀬君の二人のことで何度、職員会議がもたれたことだろうかと思う。先生は担任としてかばう役と、指導部長として追求する二役をしなければならなかったと思われる。心労をかけて、先生の寿命を縮ましたかもしれない。全く申し訳ないと思う。が60年安保闘争の最盛期、私たちは、花の高校3年生であった。

 私は高校2年生ぐらいから、この世の仕組みは、労働者階級と資本家階級の力関係で動いている、と知るに至り、自分の生い立ちもあり、自分は権力者の側ではなく、労働者・人民の側で生きていくと決めた。図書室で一杯本を借りて読んだが一番心に響いたのは生徒に寄り添う小学校の先生の実話・石川達三「人間の壁」であった。下村湖人や武者小路実篤を読む一方、小林多喜二・三浦つとむ・マルクス・レーニン・毛沢東も読んだ。見聞も深め、社会運動にも参加していった。
 高2位から、反安保闘争の高まりの中で、大阪の高校生の政治意識もたかまり、自治会同士で交流しようということで高津高校を中心に連絡組織(大高連)を作ろうという動きが起こった。加盟するかは別として、追高の自治会もその動きを知ろうということを自治会の方針に掲げていた。渉外部を担当していた私が密かに連絡協議会の準備会に出席していたが、学校は非常にその動きを牽制していた(準備会には、高津、生野、大手前、清水谷、夕陽丘、泉尾、布施、市岡など15校位が集まっていた。私学では追高だけだった。このとき出会った人たちと翌年の大学入試後、阪大で多く再会した。各校の生徒会活動の中心にいた人たちは、学習活動でも頑張っていたらしい)。
 学校の近くの大手前広場は反安保のデモの集会・出発地であり、学校の横をデモ隊が行進するのもよく見ていたが、3年生の4月になって、ついにデモに参加した。たまたま大阪府学連(大学生の自治会連合)の阪大の列に入れてもらった。そこで出会ったリーダの樋口さんとは大学に入っても親しくしていただいたが、驚いたことにそのとき紹介してもらった府学連の委員長が大阪市大の井上さんで、追高にいとこがいる、ということだった。なんとクラスの井上君ではないか!(この9月30日、井上君経営の「毎日」にこの文集の原稿を取りに行ったら、いとこではなく、実兄であるということだった。先日脳幹出血で亡くなられたという) 。樋口さんは後に、私が尊敬してやまない3年上の金一先輩と共に「良い音楽を安く」をスローガンにした勤労者音楽協議会(労音)の幹部になられる。世間は狭いというか、人間はつながっている。金一さんが労音で頑張っていた頃の運動の進め方をめぐる内部対立や外部の政治勢力(日本共産党)との緊張の状況が山崎豊子の小説「仮装集団」におさめられている。「白い巨塔」の直ぐ後の作品だが残念なことにこの小説は映画化されていない。

親友の一人だった高瀬健一君。関学の学生運動に幻滅し、中退して臨時工の組織化を図る労働運動に入る。28才、運動から離れ、税理士試験で5科目一挙合格して話題となる。実業家となり大栄経理学院グループを創設した。司法試験に何度も挑戦するが合格できず、61才、鬱病になって自死した。1周忌に稲田君と自宅を訪問した。1畳もある大きな机の天板に、定規でひっかいてつけた深いキズが一杯に広がっていて、彼が苦悩した深さを表していた。元政経部員で偲ぶ会を持ったが、労働運動を共に闘い、後に部下になって事業を支えた1年後輩の奥田君の話では「大栄に司法試験受験コースを設けるべくそのノウハウを学ぼうと頑張ったが、かなわなかったことで自分を追い詰めたのではないか」ということだった。  取締役社長室にて

 6・15の全学連国会デモで神戸高校出身の東大大学院生・樺美智子さんが殺されたというニュースを見て衝撃を受けた私は高瀬君の家(梅田の今のヨダバシカメラのすぐ北にあった)へ行った。この非常時に自分一人で安保反対を叫ぶだけでなく、同じ思いの人たちが追高でも大勢いるはずだから共同して声を上げられるように取り組むことを決めた。そこで、翌日、安保反対の抗議集会を、よく生徒会の会合で使わせてもらっていた1階の階段教室を借りてやろうと勝手に決めて徹夜で「若き学友諸君へ」という呼びかけのビラを作った。朝、通用門で、先生には当日生徒会で計画していた昼休みの本館屋上でのフォークダンスの案内を渡し、生徒には集会呼びかけとフォークダンスの2枚のビラを配った。岩田先生がふと横を見ると生徒は違うビラを持っているのに気付き緊急の職員会議。二人が呼び出されて、無届けのビラを配ったというルール違反の謝罪とビラの回収のために全クラスを回らされた。この影響でか学校としても安保問題を考える機会を作ろうと後日、安保問題の学習・討論集会が学校の主催で開催された。
 6・15の後の6月22日の反安保の第23次統一行動で大阪の高校生だけの独自デモが大高連の準備会のメンバーで計画され、私が実行委員長をすることになった(それまでは高校生のデモは府高教という高校の先生の組合のデモにくっついてやられていた)。そこで責任者として東警察署にデモ許可申請に行った(当時の署長さんが、多田君のお父さんで、子供の同級生が大阪の高校生の5000人デモの申請に来たのだから驚かれたに違いない。この情報は学校にも伝えられたらしい)。
 当日、大手前広場で私が起草した集会宣言を読み上げ、難波まで整然とデモを行った。追高からも少なからずが参加した。大阪で高校生だけのデモが実現したのは、たぶんこの時が最初で最後だと思うが、その代表が追高生だったのは追高の名誉か不名誉かわからないが、歴史的事実である。

  1960年安保闘争高校生デモ、難波駅付近。府立高津高校の名前が見える

 その後、8月に東京で開催された第6回原水爆禁止世界大会に、大阪の高校生の代表団の一員として、高瀬君と参加もした。天王寺駅などで派遣費のカンパ活動をしたが、多くの方がカンパして下さって、この運動への関心の高さを感じた。東京では、政経部で秋の文化祭で「60年安保闘争の記録」展示をすることになっていたので、大会後に全学連書記局などに行って配布ビラ等の収集もした。先輩の金一さんの紹介で当時慶応の学生だった三田和代さんのお兄さん(後に三田のコピスターの社長さんになられる)の下宿に泊めていただいた(東京でのこれらのことは東京ルポとして当時文通していた下級生の女の子への手紙に書いたが、運悪くその親に読まれ、学校に通報されたらしく、井町先生も対応に困られたと思うが、結局は秋の停学処分理由の一つにされた)。
 そして秋には体育祭の運営を巡って生徒会が学校と決定的に対立することになった。追高の体育祭はフォークダンス・民謡踊りがあったり、東海道53次という担任の先生を簡易な籠に乗せてリレーで運ぶクラス対抗レースがあったり、と楽しい種目も多くあった。生徒会では私を中心にファイアーストーム(火をたいてその周りでフォークダンスをする)の企画もあって頑張っていた(この企画は、体育祭が校外の桜宮公園で実施されていたから残念だがあきらめざるをえなかった。のちに阪大で自治会の副委員長をしていたとき、大学祭の前夜祭で、私が企画して盛大なファイアー・ストームを実現させた)。ところが学校として、リクレーション種目をなくして「体育祭」ではない陸上競技大会のような「体育大会」としてやることになった、と階段教室での代議員会で神谷先生から報告があった。生徒側が「体育祭は生徒会主催行事であり、一方的に内容変更は受け入れられない。学校は再検討する余地はないのか?」と問うと「その余地はない、決定事項だ」とおっしゃるので、決裂した。楽しい「体育祭」の伝統を私たちで途絶えさせてはいけないと執行部で議論し、生徒会を無視するのなら、それなら私たちの力を示してやろうということになり、密かに体育大会ボイコット運動に動き出した。生徒会では一方で準備している振りをしているが、体育大会当日生徒は体調不良などを理由にして一人もやってこない状況を考えていた。ところがこの動きが生徒に広まるにつれて、学校についに情報が漏れてしまった(百姓一揆の情報漏れはどのように防がれたのだろうか!)。体育大会の5日前に、二人が井町先生から呼び出しを受け、すぐに家庭で謹慎して待つよう通告され、その翌日母親と共に呼び出され、

1.体育大会ボイコット運動で秩序を乱したこと
2.大高連結成の準備に関わったこと
3.デモ参加や原水爆禁止世界大会に参加など学外の政治活動に関わったこと
を処分理由にして、高等学部長立ち会いの下、指導部長の井町先生から

 1.10月1日から15日間の停学処分
 2.今後、校外組織との接触の禁止と一切の政治活動の禁止
3.今後、学校の指導に従う
という誓約書の提出が二人に告げられ、私に対しては
4.特待生の資格の剥奪が加えられることとなった。

 井町先生は、特待生資格を取り上げることで、私が学校を続けられるかを、非常に心配して下さった。職員会議でも多分、強硬に反対していただいただろうと想像するが、もっと大きな力が働いていたのだろう。授業料は兄にすがることでなんとか学校が続けられることとなったが、この処分で我が家はえらい窮地に陥った。だが不思議なことに、母は私を全く叱りつけなかったが、私の将来に悪影響が及ぶことを非常に心配していた。毎日反省の日記をつけて提出するよう言われていたが、この処分は学生運動・原水禁運動に対する政治的処分であると私も怒っており、校則遵守の誓約書は出しても、反省日記は書かなかった(学校にたてついたから処分するのはいい。だが原水爆禁止運動に対する処分は全く許せなかった)。処分解除の数日前になって反省日誌の提出を命じられたが、「書いてないし、出さない」と言うと、「それなら退学してもらうしかない」と言う。学校をやめて大学入試資格試験を受けても1年以上のブランクが出来てしまうと、大学に行かしてもらえなくなるので、悔しかったが仕方なしに、今の心境、原水爆禁止運動に関心を持つきっかけ(核廃絶は日本人の悲願であって尊い闘いだと主張して、中学校で信頼する先生から原水爆禁止運動が起こったいきさつなどを聞いて、社会運動に関心を持ち始めたことも書いた)、これからは受験も5ヶ月後に控えていて勉学に励むつもりであること、などを書いて出したら、復学が認められた。

 卒業後、出身の生野中学校に大阪大学合格を報告に行ったときに、先生方がざわめいた。その訳を聞くと驚くべきことを知らされた(その頃、1学年に700名いた生野中で一番優秀な生徒10名くらいが天王寺高校へ進学し、2番手の男子(私もその中に入っていた)は生野高校、女子は勝山高校へ進んだ。生野中出身者で天王寺高から現役で阪大に入ったのは2名。生野中で3年間いつも成績一番だった木村潤君は高2で自死した。家庭教師をして夜、家に帰ったら朝日新聞の夕刊で大きく報じられていた。天王寺高校でも成績優秀で、学年で10番台だったが、それ以上に成績が伸びないことを苦にしたためとあった。林寺小学校の同級生でよく家にも遊びに行っていたから、もう夜の10時を過ぎていたが、弔問に行った。みんなが帰った後で、私一人で遺体と対面した。小学校の先生をしておられたご両親は取り乱してはおられなかったが、深い悲しみに包まれておられた。元気な私を見られて、悲しみが増されたみたいで、これは最大の親不孝や!私は親より早くは死んではならないと心の深いところで決意した。生野高校から阪大への現役合格者はゼロであった)。

 私が反省文に中学校の先生のことを書いたことで、生野中学校が生徒に左翼思想を吹き込んでいるという理由でだろうか、処分の翌年の追高の入学願書受付で、生野中学校からの受験生全員が拒否されたという。中学校でも先生の組合でも大問題になったらしいが、どう収拾されたか私は知らない(井町先生は、戦後の教育の民主化で、教育委員長の公選制が実施された時、豊中で立候補された。が日教組の推薦候補に破れたという経緯があったためか、日教組には批判的であった)。生野中からは温厚な今津さんも来ており、全くの思い違いもいいところだが、権力者として学校が動くとき、恐ろしいことをするものだなあと思った。この中学校への制裁処分の不合理は、もし私が大学で学生運動などで問題を起こした時、例えば大阪大学が高校教育に責任があるとして追高生全員の受験を拒否したらどうなるかを考えたらいい。だが処分という場面で、自分を語るとき、自分が一番大事に思っていたことを軽率に書いてしまって、多くの人に迷惑をかけたのは未熟な自分の責任だと大いに反省した。

 体育大会は主催者となっている生徒会の中枢がボイコット運動に関わっていたので、生徒会主催では実施できなくなり、この年度は学校主催行事として実施されたという。

 生徒指導部長としても厳しく生徒に対面せざるを得ない井町先生と政治的な立場、おかれた社会的な立場で厳しく対峙する場面もあったが、私生活では、私のことを非常に心配してくださっていた。私の生活の窮状をよくわかっておられて、奨学金を受けられるようにしていただいたり、勉学をあきらめずに頑張るように常に励まし続けて下さったのも井町先生である。卒業後、大学院に進んだ私が、追高の茨木学舎の物理の非常勤講師でお世話になるときも力になっていただいた(私は2年間お世話になったが、私に続いて中野君も物理の講師で来た)。そこで世界史の先生をしていた女性と結婚することになったときに、大学闘争の影響もあって、非常勤講師の組合を作ったりして学校と摩擦が起こって私の立場が悪くなっていた時だったが、ご夫妻で仲人を引き受けてくださった(式兼披露宴の司会は中野君がしてくれた)。

2年生の時の新聞部員。安藤さんの映画談義で部会はいつも盛り上がっていた。先輩の卒業アルバム用写真

 上に書いた先生以外にも、1,2年生で新聞部の顧問をしていただいたユーモラスな織田先生、3年で新聞部の顧問として指導して下さり、3年の部員全員をクリスマスに鴻池新田の自宅に呼んですき焼きをごちそうして下さった崎山先生、物理の授業で理論だけでなく演示実験を工夫していっぱい見せて下さった内田先生(教師になってわかったが、ちょっとした演示実験でも、材料の調達、予備実験で1週間かかることもある)、2年生で福井さん・稲田・藤原・高瀬君らと創部した政経部の初代顧問を引き受けて下さり、難題を持ちかける私たちと学校の間で板挟みで苦労をされたであろう川俣先生(私は踏切で機関車が引っ張る長い貨車をなんとなく数えるが、その時必ず川俣先生を思い出す。戦前の特高が、貨車の台数を数えていた人を、敵に情報を売るスパイとして連行した、という実話・・これは権力者がどれだけ国民を信頼していなかったかを示す話だが、授業で聞かせていただいたからだ)、山添先生、神谷先生、橋本先生はじめ諸先生方の思い出が一杯あるが、もう紙面も尽きたので筆を折るとする。

3年生のクリスマス。新聞部員が崎山先生のご自宅で。

 種々こんなわけで、私が追高と出会っていなかったら、私の人生は、全く変わったものになっていただろうと思う。一方私のために迷惑を受けた方も多くおられると思うが、人生袖ふれあうも何かの縁、と思ってお許し願いたい。

 それにしても、高校3年間、たったの3年間だが、私の、人生の中でどっしりと心の一番大事なところに収まっている。私をつくって下さった先輩、級友、先生方に深く深く感謝している。これからもおつきあいをよろしくお願いします。(この文章を書いて後、1週間は私の頭の中は追高一色になっていた。)

あとがき <たかが文集・されど文集>

 追高卒業50周年・古希同窓会の案内状を、皆さんに送る作業をしていたのは、なでしこジャパンが、決勝戦を戦っているテレビ中継中でした。同窓会に大勢の人に参加して欲しいけど、遠方の人もいるし、当日のっぴきならない用事で参加できない人もいるし・・、一方で私たちの体力も弱ってきているし、病床に伏す人も増えるだろうし、この同窓会が盛大に開催できるのもこれが最後になるかも知れないとふと思いました。

 同窓会で集うのは、元気なことを喜び合い、近況を語りあい、今後の生き方の知恵を交流し、思い出話で友情を確認するそんな場が心地よいからだと思います。それなら、遠方の人も欠席の人も、ちゃんと交流できるようなことがないだろうか、と思うと一瞬にひらめきました。「記念文集」を作ったらいい。うーん、だけど作るとなると、膨大な作業量です。高校教師になって、生徒文集を多く作りましたが、福祉や人権の講演を聴いたり、授業でオッペンハイマーの映画を見せて、その場で感想文を書いてもらうと、すぐに感想文が集まります。載せるのを選んだり、助言して一部書き直させたりしますが、まあ原稿が集まっているわけです。さあ、古希の人に、人生のことや、高校時代のことを書いて下さい、といって書いてくれるだろうか。原稿が集まったとして、ワープロ打ち、写真選び、レイアウト、印刷原稿造り、印刷、紙折り、製本の作業で、これまでの経験では50〜80時間かかります。うーん、と思ったとき、なでしこジャパンの、この女の子らも頑張ってるやン、えいっと決断したわけです。そこでメールでみんなに「高校時代とその後の人生」というテーマで文集作ろうと思うんやけど、どう?」と聞くと、数人の人が応えてくれて、賛否半々。「そんなん言うても、書く人はほとんどおらんで」という人、「自分の人生は人に語るほどのものでもない」という人、一方で池田君が、そのテーマでは書きにくい、何でも書けるようなテーマにして、タイトルを自分でつけるようにしたらいい、と助言をしてくれ、河井・松居・内藤さんが賛成してくれて、スタートした次第です。

 河井君が本格的な「自分史」を、青山君が白血病と家族のことを投稿してくれて、いい滑り出しだったのですが、原稿がなかなか集まってきません。自分は「母の葬式で考えたこと」というテーマで私と母のことを書きますと、皆さんに言っていたのですが、いざ書こうとしたら、書けないのです。
そこで苦しいので、方向転換して「何故書けないのだろう?」と考えました。
そしたら、わかりました。「何のために書くか、誰のために書くか?その目的というか、意味付けが自分として、はっきりしてないのだ!とわかりました。

 私の母が2年前の8月に93才で亡くなったのですが、私の子供には私や妹の出生にまつわるややこしい話を一切していなかったのですが、それに関わって一家は大変な苦労をしてきました。母が亡くなって、このことを忌まわしいこととして封印してしまうか、それともそれを白日の下にさらして、一発大逆転して、そんな苦労の中を母子で励まし合って生きてきたことを一番大事な宝としようという宣言の場にできるか、兄と相談して腹をくくリました。通夜で挨拶した兄に代わって葬儀では、母と一番長く一緒に暮らした私が親族代表として語ることになりました。この時は母のことを語る目的ははっきりしていました。子供や孫にこのすばらしい母(祖母)がいてみんなの命があって、苦難を母子が手を携えて乗り越えてきたことを倉田一統の一番大事な宝としよう、ということを伝えることでした。だから腹をくくって語りました。(この時語った内容を文にしたのがありますので、読んでやろうという人は読んでください)。要するに「何のために語る(書く)か?」です。多くの方が、何のために誰のために書くのかで当惑されていたように感じました。

 酒井先生の文章を見て、若い人と違って、私たちはもう人生収斂の時期を迎えています。死ぬ準備をする時期です。中野君が亡くなったのもショックでした。もうすぐ死んでいくとして、そういう位置で、自分の人生を振り返るとしたら、人生良かったと思えるか、しょうむなかったと思うかです。いいこともあった、悪いこともあったという考え方もあるけど、では総体としてどっちか?と考えるでしょう。人生の値打ちは、自分がそうならなかったからかも知れないが、社会的な地位がなんぼのものか、大金持ちがどうしたんや、と思っています。人生の値打ちは、どんだけいい人間関係を作ってきたか、死ぬときに、ありがとうって思ってその人の顔を思い浮かべられる人が一人でもいてるか?二人いてるか?その人数が多い人が幸せな人って事になるのではないか、と思いました。そこで自分の高校生活でもいろんなことがありました。もつれた糸のようにまだ整理できていないこともあります。しかしいくら関係が良くない人でも9割が悪くても残り1割がいいわけで、9割が悪いから全部悪いって捨ててしまったら、損かも知れません。そんなわけで先生方とのからみで、プラスに評価できる部分はないかを考えよう、と気がついたわけです。題して「私をつくった先生方」。書く目的は「いいつながりがたくさんあったことを確かめるため」です。そう決めて書き始めたら先生を通して自分のこと、友達のことが芋づる式にでてきて、おもしろかったです。自分を語るのは難しいですが、人との関係を語るといつの間にか、自分を語っていることになるというのは、大発見でした。そんなわけで私の書いた長文を読んでくれる人はあまりいないでしょうが、皆さんも高校時代の苦い思い出とともに、一杯いいつながりがあったことを思い出して下さり、それを共有財産にするために、文章に書いたり、お話をお聞かせ下さい。10月15日にお逢いできるのを楽しみにしています。投稿いただいた酒井先生、山本先生初め皆さんに御礼申し上げます。助言いただいた、老後の生き方を私もしっかり考えていきたいと思います。(倉田維)