出羽/阿部君を偲ぶ

  阿部君を偲ぶ
[   去る5月1日、級友阿部公二君が亡くなりました。謹んでご逝去を悼み心からご冥福をお祈りいたします。ご葬儀は、5月4日天王寺区六万体(夕日丘の近く)鳳林寺にて執り行われ、池田、井上、平、諸兄と僕が参列しました。 
 我が国男子の平均寿命は81歳でありますが、既に75歳まで生きた僕たち男子が生きるであろう平均余命は87歳であることを思うと彼の死は早すぎます。 
クラス卒業52名の内、判明しているだけで10人の方が他界されました。 
浅野、阿部、川畑、小山、中野、西村、山本、今津、竹林、皆川さんであります。 
 物故者の皆様に合掌 黙祷 

 阿部君を偲んで60年前の思い出話を書くにあたって先ず、僕自身の良識の範囲内で阿部君はじめ級友のプライバシーに触れることをお許し願いたい。 
もう一つ、そろそろ認知症が始まっている僕の記憶違いの嘘が、かなりあるかもしれないこともお許し頂きたい。 

 阿部君は、高校から追手門学院に入学し、慶応義塾大学経済学部に進学、卒業後は、家業である(松屋町筋商店街の結納屋さん阿部商店、阿部ラベリング)を兄上、弟君の3人で継ぎ、阿部君は、ラベリング印刷分野の業容拡大に貢献寄与されたようである。 

 彼の小中学校は、所謂エリート校、大阪学芸大学付属天王寺?だと知って、僕ら悪ガキグループは、「よっぽど勉強せえへんかったんか、何か悪さして放り出されんやろ?」と弄ったものである。すると彼は、怒りもせず、ニヤニヤ笑いながら「その両方や」と返してきたのを思い出す。そんなキャラだったから僕らエスカレーター組の悪ガキグループともすぐに意気投合して高校、大学時代から社会人そして結婚後も交流が続いてきた次第である。 

 兎に角よく遊んだ。泳ぎ、キャンプ、麻雀、ゴルフ、呑み会など。そして悪さもした。最初の悪さは、1年の夏休みに能勢電(現在阪急)の鶯の森遊泳場に泳ぎに行った時のこと。(猪名川の上流で60年前はアユが住むほどきれいな水であった)梅田駅に集合して切符を買う折、確か阿部君だったと思うが黒田君だったかも知れない。 
 「待てまて、皆、切符買う必要ない。キセルやろ」と云い出した。8人いた中で阿部君だけが鶯の森の一つ手前の滝山駅までの切符を買い、残りの7人は梅田駅を入場券で入り、阿部君だけが滝山で下車して7人分のひと駅切符を買って鶯の森を出ようとの算段である。当時の改札は、切符切りに鋏を入れ穴をあけて貰い駅に入る時代であったから「降りるとき鋏の穴が無いとまずいで」と誰かが云うと「マッチ棒で開けたらえぇ」とのこと。 
宝塚行きの急行に乗って談笑していると発車のベルが鳴る中、駅員2人が笛を吹きながら走ってきて、全員降ろされ駅長室に引っ張られた。「入場券でどこへ行くつもりや?不正乗車やないか、どこの学校や?」と畳みかけられ、将に青菜に塩、全員青くなって「学校だけは勘弁してください」と平謝りであった。確か正規の運賃の3倍を払わされ「2度とするなよ」と釘を刺されて放免された筈である。 

 二つ目の失敗は、2年の夏休みに4,5人で湖北の木之本に泳ぎに行った時のこと。 
テントが無かったので古い蚊帳を一張り持って行き、浜辺の木陰に張って蚊の襲来を凌ぐ積りが、風が吹くと軽い蚊帳は煽られて所謂、裾空き状態になり目を覚ますと腹を膨らませた5,6匹の蚊が蚊帳の中にとまっていた。 
2日間、飯盒で炊いた飯に缶詰ばかり食べていたが、満天の星空としばしば飛来する蛍は忘れられない思い出である。 

 大学時代に5,6人で瀬戸内の家島群島の一つ、小さな島にキャンプに行った時もこれまた失敗である。姫路に近い飾磨港から船で小一時間、塩水は腐るほどあるが飲み水が少なく、日陰もなく、あるのは虎斑模様の獰猛な蚊ばかりで全員音を上げ、台風の接近もあって3泊4日の予定を2泊で切り上げて退散した。 

 1浪の僕が3回生、現役組が卒業する前年に能登に泳ぎに行った時は、特に失敗談は無いが、帰りの汽車の中でサプライズハプニングがあって、阿部君のラブロマンスが生まれ、愛が育まれた結果が、恋女房雅子さんとの結婚である。 
この件については、僕が聊か関係して所謂キューピット役を演じた経緯があるのだがマコちゃんが迷惑すると悪いので真に残念ではあるが割愛する。 

阿部、敏コ(井上)、凡児(平)、巽ッツンら互いの家に押しかけて麻雀に明け暮れた時期も懐かしい。平君の結婚祝いを持って阿部、井上君と訪ねたときは、3人して祝い金を巻き上げ、「すき焼きを食べられたうえに祝い金は自前か」と平君をぼやかせた。 
 恩師井町先生のお宅に年始に行った帰り、僕の家で徹マンに興じた折は、夜更けに腹が空いてきて辛抱たまらず、ストーブで餅を焼いて湯を注ぎ鰹節に塩、醤油だけの即席雑煮を何杯か食べたことを阿部君は何時までも覚えていて 
「あの時の雑煮の旨かったんは、よう忘れんわ」とよく口にしていた。 

 ゴルフ巧者は、青山、池田、黒田、平君で(最近40・43でのラウンドは称賛に値する!) 
阿部、井上、巽、倉田(佳)君と僕らは下手組である。阿部君とは千刈(2回)、飛鳥、宝塚高原(3回)など廻ったが彼にはかなりチョコレートを頂戴した。(チョコレートとは、何かを賭けてゴルフをプレイすること) 
 阿部商店は、木曽駒高原、宇山、木曽カントリーを所有されていて、なかでも接待リゾートで有名な木曽駒高原ゴルフは、美しくて素晴らしいコースである。 
白樺が林立する中にせせらぎが流れ、郭公が鳴き石楠が美しく咲き、リスや鹿が散見される高原に10数人も泊まれる立派な別荘がいくつもあって、阿部商店のほかは何れも一部上場企業の表札ばかりが並んでいた。僕は3度使わせて貰った。 

 ちょっとイメージが湧かないが、大学時代は弁論部に籍を置き、中年過ぎてフルマラソンに挑戦し、ハワイマラソンを完走したことを自慢にしていた阿部君が、クモ膜下出血で倒れて救急車で運ばれ一刻を争う、しかし極めてリスクの高い脳内大手術をお嬢さんの即断、英断で受けて、一命を取り留めたことは退院後に知った。回復を待って鰻・割烹菱竹(梅田の井上君のお兄さん経営の店)で快気祝いをしたとき、平気な顔でよく飲み、よく食べ、良くしゃべり、煙草も吸っていた。 

 後年になって囲碁に熱中した彼は、関西棋院でプロの指導碁を受け、アマ5段を取得、アマ指導者の資格も得る腕前になり、本田邦久プロや石井邦夫プロと中国との交流囲碁親善旅行に随行もしたと聴く。アマ5段と言うのは囲碁でも将棋でもめったに取れない段位である。冒頭に彼のことを大阪学芸大付属の落ちこぼれかと冷やかしたが、実は真逆で彼は、とても頭がよかったんだと思う。 
 したいことを好きなようにやり、仲間の誰よりも人生を楽しんだ阿部君、喜寿の生涯を閉じるとき「俺の人生に悔いはないよ!」と呟いたかも知れない。 

 同窓諸兄諸姉には取り留めない拙文にお付き合いを頂き、さぞ御迷惑であったろうが、そもそも斯様な駄文を僕が書かされる羽目になったのは、倉田(維)君が平君に「阿部君の追悼文(思い出話でも可)を書け」と宿題を出し、平君が「俺はゴルフで忙しい。カッパ書け」と僕に振ってきたのを、断り下手の僕が引き受けたからに他ならない。倉田君という人は、誰にでも宿題を出したり、勝手なテーマを与えて「同窓会までに考えて来い」などという人である。同窓会の集まりが悪いのはその所為じゃないか知らん?サンデーモーニングの張さんの口真似をして「いい加減に止めて貰いたいわねぇ」と云いたい。僕は、1年前の同窓会で「うまい魚の見分け方と料理の仕方について述べよ」という宿題を出されたが未だに放ったらかしている。 
 もっとも今回は、ほかの人の依頼なら断固断ったところだが、「平君やからまぁーしょうないな」と思って引き受けた訳は、阿部君のことを気にしながら放ったらかして何も行動しない大阪組と違って、昨年の12月はじめ、茨城県から遠路はるばる介護施設の阿部君を見舞い、先のお葬式にも参列するほどの(僕にはとてもできないことである)友人思いで誠意のある人の頼みであったから。 

 葬儀の後、池田君の案内で夕日丘の老舗のうどん屋に行き、井上君の奢りで一杯飲みながら僕は平君に云った。「君が僕より先に死んで、茨城で通夜、葬儀があっても僕は行かないよ」と。 
 最後に今一度改めて、阿部君のご冥福をお祈りして擱筆といたします。 
 2018.5.20(かっぱ記)