倉田維晴/尼崎工業高校での記録

身をさらして生きていくこと

 兵庫県立尼崎工業高校(尼工) 倉田維晴 1975年4月(33才 )執筆に一部加筆

――――尼工で最初に担任した生徒とその父母との出会いの記録――――

1. 生涯の生き方をかけて

「なあ、あの時、君が<俺は国、大丈夫や>いうてあの会社に入社していたら、今こうして君と一緒におれへんやろうなぁ」
卒業試験も終り、機械科の卒業製図を書きあげるのに学校で徹夜でがんばる生徒の一団の中に、在日韓国人生徒Sの姿があった。Sはもうかなり以前に、それも見事な図面を完成させていた。友人たちを励ますためにつきそっているのだった。野球部のキャプテンで名ショートの誉れ高いHにSがしみじみと語っている。
H−−「あの時、何もかも見透してたわけじゃないけど、なにせ俺の一生の生き方がかかっているいうことはビンビン感じてたわ」

昨年五月、Tベアリング社の野球部監督から尼工へ『ショートのHがほしい。他に野球部の生徒を二名を紹介してほしい』と青田刈で求人要請がきた。そして
『そのHという子、国は大丈夫ですか?』
とかぶせて聞いてきた。会社の意図していることは明白であった。外国籍の生徒は排除するというあからさまな表明であった。その人に学校へ来てもらって、三年の野球部員八名と顧問・担任とで話合いをもった。”この会社はこんなええ会社ですよ。君たちの給料はこれくらいですよ”、という話にHはこう返していった。

H――「先輩、この会社ええ会社と思いますが、ここは、朝鮮人や部落のもんは採用しないんでしょう? ぼくのクラスにも朝鮮人、部落出身者がいます。その友だちらを裏切ることできない。 いくら行きたい会社でも、クラスのみんなが入っていけるような会社でないといかれへん。尼工で人の痛みがわかるようになりました。」

格好よく言ったのではない。顔から脂汗たらしつつ、膝の上においた握りこぶしをブルブル震わせながらやっとの思いで言った。ここでもの言ったら札つきにされてしまって就職口がなくなるかも知れないとまで腹をくくっていた。Hにつづいて、他の生徒も自分の一番つらい中身をしぼり出すことでT社の人事採用の差別姓を打っていった(その後のT社との学習会の記録は、阪同教・兵庫高校進指研阪神支部共編『日本人にとって何が問われているか』に収録。T社は後に在日外国人、被差別部落生徒へ門戸開放を行った)。その時のことをSは言っているのだった。

2. 俺、親を殺しかけていた

Sは高校進学の際、志望の私立高校が在日朝鮮人を受け入れないという中学校担任の話を信じ、高校進学をあきらめ神戸の職業訓練所へ進んだ。その一年後、尼工に入学してきた。私はクラスの在日韓国・朝鮮人生徒四名を集めて「父母の生きてきた事実から学ぶこと、本名を名乗っていくこと、朝文研(朝鮮文化研究会)・朝鮮奨学会の集まりに参加していくこと」を要求したが、Sはそのどれもきびしく拒否した。

「センセは朝鮮人として生きろと言うけど日本人は朝鮮人差別しとうやないか。進学でも就職でも仕事でも、ぼくらに一番大事な生き死にのとこで、ぼくら除外しよるんや。そう言うてるセンセ自身が一番の差別者やないか。ぼくら、日本人の社会にとけ込んでわけへだてなくやっていこうとしてるのに」

朝文研の新入生歓迎会が持たれた時、参加することを勧めたら、学校中を走り回って逃げた。数十分も追っかけ合いをするうちに一瞬見失った。実習棟三階の渡り廊下のところでボツンと立っていた。そして、つきものがとれたような晴れ晴とした表情で、

「センセ、俺なにもセンセから逃げる理由あれへん。何も悪いことしたわけやない。走り回っているうちに当り前のことに気づいたわ。集まりに出る、出ないは俺自身の問題や」

これが彼の私への最初の朝鮮人宣言であった。二年生の三学期になって、朝文研の先輩が自らををさらすことで進路をきりひらいていった事実に励まされて本名をとりもどす。

『先生やクラスのみんなが俺のこと、通称名で呼ぼうがSと本名で呼ぼうが、俺はSや、朝鮮人のSなんや。日本の子やったら遊んだり、サボってても何とかなるか知れんけど、俺は、そやない。家の近くで東京の有名な大学出た人もたくさんいるけど、やっぱり就職口なくてゴム屋してる。そんな日本の中で、尼工の先輩は、本名を名乗って社会に小さな穴を一つ一つあけてきよった。俺は、その穴、ようあけんかも知れんけど、先輩のあけてくれた穴、自分で大きくしていかなあかんと思とう。そのためにも実力つけていく』

そんな腹決めした彼も、三年生の夏休み、進路を具体的に決める段になって、大学進学の希望を捨て切れなくて悩みに悩む。彼は職業訓練所での友人たちが、社会に出て、整備士の資格をとったりして実力をつけている。それに見合うような二級の整備士資格をとって社会に出たい。 ゆっくり人生のことも大学で考えたいと言うのであった。家では、数ヵ月前、父母の営む神戸市長田のケミカルシューズの小さな工場が立ちのきにあい仕事をやめていた。それと同時に、仕事のいきづまりから、いら立つ父母に別れ話が持ちあがり、母はSと弟とを連れて家を出た。弟も高校進学をひかえて、家計は火の車であった。母は一歩もひかずにきびしく言う。

『家がかかえている問題に背を向けるような形で大学卒という肩書きにしがみつくような弱い生き方をしてはいけない。今、おまえはつらいかも知れないが、こんなんは、つらい口に入らへん。オモ二(母)はもっともっとつらいとこなんぼもくぐってきた。これからもある。それを乗りこえていける根性と技術を身につけていくような生活に入ってほしい。おまえのようなつもりやったら、大学行ったら、土方ようやらんようになる。そんな学歴は毒や、淡い期待持ったらえらい目にあわされる。Sかてわかってるだろうが』

 Sは、荒れる。担任も加わって『おまえは、お母ちゃん殺す気か!』とつめる中で、 Sは自分の希望がいれられないのなら家を出る。家のことなんか知らん! とまで言い切ったとき、担任の前で、母は息子の頬をビシッと打つ。子どもに手を出したことのない母が。その夜、二人の子どもにすべてをかけて来た母は、一睡もしないで、官製ハガキの両面に子どもへの思いを書き込んで、枕もとへそっとおいて、仕事に出かける。

『昨夜ねむれなくて困った。これから生活をしていく事については楽ではない。ますます苦しくなると思う。母はあくまでもSの気持を大切に考える。まだまだ考える日がある。今が一番大切な時である。あくまで母、弟の生活を考えて、Sがあくまで自分で決めることである。 午前三時四〇分 母』

 Sは朝起きて、このハガキに気づく。ところどころインキがにじんでいるのをみつけて思い沈む。夏休みもあと数日で終るというその日、そのハガキを担任のところ見せにくる。「俺やっぱし、あかんかったな。おかんの気持どんだけ踏みつけにしてきたかわからんな。もうちょっとで、おかん殺すとこやったわ」と、自ら大学進学の淡い幻想を断ちきっていく。クラスの同胞のYもWも、きびしく点検しあうことでSをささえる。いよいよ就職試験に望む直前の九月、もう一人の担任のI先生の家で泊り込んで語りあったときのことである。

S ―― 「センセは親の話を聞け、それも一番しんどかったことを聞いてこい、いうけど、そんなこと気楽にいうな! なあWよ、自分かて、自分の親がつぱ吐きかけられたり、石投げられたり、もっとひどい仕打を受けてきたことなんか聞きたくないなあ」

ふすまの鴨居に両手をかけて、ぶらさがったような格好で同意を求めたとき、ふだん穏やかで、身長も180センチもあるスポーツ万能のさわやかな青年といったWが眼を真赤にして、うめくように返す。

W ――「なんでそんなこと俺に聞くねん!・・・・Sは逃げてるだけやないか。俺は聞いてるで。くやしいから、聞きたくない話だから聞かなあかんのや」

棒立ちになるS。みんなうつむいて思いをのみ込む。その重苦しい沈黙の中で Yが口を開く。 三人の弟妹をもち、家族のことをいつも気にかけている子だ。

Y ――「みんな同胞の子と結婚すんのか。」
S ――「日本の子と結婚する言うたら、オモニ悲しむもんな。」
W ――「すぐ上の姉ちゃん、日本の建築会社に勤めてるけど、美人やし、頭ええんでそこで日本人の青年に求婚されたこともあったらしいけど、やっぱり同胞の人と結婚すると腹決めよったらしい。そのこと知ってお母ちゃんが涙流すんやな。嬉しいって。」
S  ――「俺なあ、今度生まれかわってくることがあったとしたら、もう一遍、同じあのお母んのお腹から生まれてきたい。そう思うねん。ただし朝鮮でやけど。」

3. 「ほんとに死ななくて良かった」

Wの腹の決まり方はすごい。一体どこからくる強さなのか。この合宿のあとしばらくして、父母のことを書いた作文をもってきた。

「私をここまで育ててくれた父は今52歳である。朝鮮に生まれ、5歳の時、父(祖父)をなくす。 祖母は再婚したため残された父は三年後、日本で働いていた叔父の所へ引き取られた。 父は養ってもらったということで性格が遠慮深く、自分の欲しい物や言いたいことは大体押さえて、自分という人格を隠してしまった。家の中でもいろんな事があっても何も言わず無関心、無関係という顔をしている。そんな父に私は腹が立ち、歯がゆくも感じる。これが重なるにつれていや気がしてたまらなかった。しかしそれは、父がどういうふうに育ってきて、どんな生活をしてきたのか知らなかった上でのことです。 事実は事実として歯がゆいが、父が何かかわいそうになってくるのです。 幼い頃から悲しいことも、苦しいことも皆自分の胸の中におさめ、人には口外せず、自分一人で考え続けてきた父が。私が尼工へ入ってから、父への見方が変ってきたのです。
 私の母は、子どもだけには、自分が受けてきた苦労は絶対にかけたくないと人の二倍も三倍もがんばってきた。一人でしんどいことを背負ってきた。私は幼いころから、それにあまえて母の腕の中でぬくぬくと育ってきたと思う。母は人のめんどうみが良い。地方から出てきてるお客さんなど、自分の子どものように、しかったり、ほめたりしてかわいがる。お客さんも『おかあちゃん』と言って頼りにしているぐらいだ。
 母のこれまでのこと聞いたら聞く程、気が遠くなる感じになる。母はまったく働くために生まれてきたような人だ。 朝鮮が日本の植民地にされ、そこで生きていかれなくて一家が日本にいくことになった。母が八歳の頃だ。その当時のお金で一円足らなかったため、たった一人、長女だった母だけが朝鮮に残されることになる。駅で『オモニー!」と絶叫しつづけたそうだ。叔母の所で、生きるため仕方のないことだと言われ、一軒一軒残飯をもらいながら生きていた。日本から迎えがくるまでの四ヶ月間、乞食みたいな生活をしていた。日本では母は九歳から紡績工場で朝六時半から晩八時まで家族のめんどうをみながら、父と結婚するまでの九年間ずっとそこで働き続けた。母は長女だったので、弟や妹のおしめの洗濯、両親や弟妹の食事の準備をして工場に行くので朝も昼休みのあともいつも遅刻していた。それでも仕事だけは、誰にも負けていなかった。そのことを母は今の子やったら死んでしまうでと言う。』

父20歳、母18歳で結婚。その後すぐ父は日本軍の軍属として、南の島をひっぱりまわされ、サイパンへもいく。〈内鮮一体〉というスローガンにもかかわらず、実際には朝鮮人には鉄砲を持たさず、砲弾の運びしかさせなかった。解放後は、阪和線の建設工事現場監督や炭焼きをしたこともあったが、安定した仕事についたことはなかった。父が失業中に五人の子どもをかかえて母は血を吐くような生活をつづけていた。四女の姉は母親ゆずりの闊達な娘だが身体が弱い。寝込む娘の色白の美しい顔をみるにつけ母の心は痛む。

「大きな洗濯石ケンを50個、この両腕にかかえて、毎日売り歩きました。この子の姉が生まれて産後三週間で、生まれたばかりの赤児を背負って2, 30キロの石ケンかかえてです。首がまだ座ってない赤児の頭がススキのようにゆれてて、身体によい訳ないのん当り前や。それ百も承知でそうせんと生きていけない。このくやしき、センセわかりますか。子供たくさんいて、私自身食べるものなくて母乳も出ないので、馴染みになった日本のおかみさんに白湯(さゆ)つくってもらって粉ミルクをのませたりしていました」

Wの母は息子に語り聞かせるために、私の手を握りしめ、膝をたたき、肩を打ち、話してくれる。ふしくれ立った母の手は私のよりひとまわり大きい。私も私生児として生まれた自分のこと、私の母のことを話す。Wの母の姿がみえてくるにつれて、私の母の姿と重なってくる。Wは目を赤くしてじっと母の目を正視して聞く。父がやっとありついた Yジーゼルの下請で大型船舶エンジンの運送の仕事をしていたある日、父はトラックの荷台にいた。無免許の若い運転手が曲がり角で急ブレーキをかけた時、荷崩れして、父はその下敷きになる。まわりの人がかけつけて、もうあかんだろうと思いながらも荷物をどけたら、かろうじて生きていた。腰骨がくだけて半身不随に近い身体になる。下請けの臨時工だということで50万円の補償のみでその会社も父が自分からやめますと言い出さずにおれないように追い込んできた。Wが幼稚園の頃である。母は小さな飲み屋のスタンドを始める。母の身体も幼年の無理が重なって、もうガタガタになっていた。この時のことをWはこう書く。

「中学校の頃、生活の面、親の面、あらゆる面で自分にとって一番の山場であった。両親とも病いで家の中はいつも暗い感じやった。父の入院していた六年間は私の小学校六年と重なっていたが、父のそのころの記憶といえば、病院に見舞に行ってごはんをもらったということだけで全くの空白の状態で、中学になって突然父が現われたという感じである。父は、その後三年間自宅療養していていつも落ち着かなかった。その上、母は、いままでの父の看病、私ら五人(そのうち四人は通学していた)の子の面倒を見るため過労に過労を重ねてもうノイローゼみたいになり、いつもイライラしていた。それでも生活が店一本にかかって、死にもの狂いで働いていた。朝の五時まで働くことも少なくなかったようだ。近所の人やお客さんに母は「生活保護を受けたら?」とよく言われたそうだ。しかし母は”人様にたよって生きていけない。この子らは私の力で育てる“という信念で拒否していた。中学一年の終りの頃かな。友だちからも先生からもよく、”変わったなあ”、それも”落ち着いた、大人になった”,というふうに言われた。その時、自分では何も変わったとは思わなかった。変わったとしてもその理由はわからなかった。でも考えてみると落ち着いたのでも、大人になったのでもなかったのではないだろうか。心が暗く陰気になってしまったのでは······ 。家ではムッツリでおもしろくない。親と子のきずなというのか、親が元気がなく気が重いと自分まで自然と陰気になってしまう。恐ろしいことやけど、このころの私は、“親なんて!”と思っていた。母に説教されても聞き流し、ああまたか、ぐらいにしか受け止められなかった。反対に、
“なんで朝鮮人に産んだんや!“
と平気で言っていた。親としてたまらんかったやろうなあ。どんなに嘆いたことか。私たちがそういうふうにわめいていても母はいつも悲痛な顔をして黙っていた。今思ったら酷いこと言ってたと思う。どうしようもないことやのに、歯がゆかったにちがいない。

母は身体のあちこちが痛みしびれるという障害、生活苦も相まって、張りつめた糸が切れるように、ついに「猫いらず」を飲む。Wが中学二年生の折であった。死ぬと決意してからも何日も子どもの顔をみてはためらう。Wが学校へ出かけていく時、
“サヨナラ息子よ、今日帰ってきた時はもうお母ちゃんおれへんで。元気でやるんやぞ、お母ちゃんの分まで生きるんやで”
と心の中で叫んだ。母は遺書は書かなかった。何故なら、幼いころから学校へ通うどころか、字を学ぶ生活の余裕すらもなく寝る時間さえもなく働きつづけてきたから。日本の漢字、カナのみではない。朝鮮の文字すらも奪われていたから。書かないのではなく書けなかったのだ。劇薬を飲んだあと、岡山の母親のところへ、この世の別れの挨拶の電話をする。
「もうあかん。オモ二、かんにんして」
110番通報で岡山県警、兵庫県警、尼崎東警察署と命救出のリレーが行われ、警官が駆けつけ、病院へかつぎ込まれる。処置が早かったのであやうく一命をとりとめる(この事件は新聞に大きく取り上げられ、私の記憶にもあった)。この話を聞かせてくれたのは、私が一番へこたれていた時、一昨年六月腎炎で京都の国立病院に入院した時、はるばるWと一緒に尼崎から見舞に来てくださった時のことであった。この日、朝四時から起きて朝鮮料理の文豆(ぶんど、エンドウ豆)の粥をつくってなべに入れて持って来てくださった。お父さんが入院しておられた頃、この粥をつくっていると聞くと、父は病院を抜け出して家に食べに帰った程のおいしく滋養のあるものであった。もったいなくて涙がこみあげてきた。私はいつもWの母に励まされてきた。

Wはそんな中で尼工へ入学してくる。本名を名乗ることは拒否するが、朝鮮奨学会(日本に於ける唯一の南北朝鮮の共同運営の組織)の奨学生になる。『日本の政府の検助なら受けない。同胞の人たちの子どもへの思いを、今はありがたく受けたい。この子がきっと再び、同胞にかえしていくでしょうから』と母は言う。奨学会のサマーキャンプ、朝文研活動に参加していく中で父母への思いがつのってくるようになったと言う。一年生の三学期、解放前の朝鮮の民衆を描いた映画『花を売る乙女』の上映会があったとき、私は会場から出てこられるお母さんとお姉さんの姿をみつけて呼びとめた。お母さんが泣いておられる。

「この映画にでてきたかわいそうな少女の人生は私の人生そのものなのです。自分のことと重ねあわさずにはみておれなかったです。そのこと以上に涙がこみあげてくるのは、尼工に入る前は、店でアリランの唄のレコードをかけたりすると、きびしい目でにらみつけて、チェッと舌打ちしていたあの息子が、この映画を観ておいで、と送り出してくれたことです。今は家でお客相手に一人で店をやってくれています。私はほんとに死ななくてよかったと思います。こんな息子が育ってきたのですから」

翌日、Wが私のところに来て言う。
「昨日お母ちゃん帰ってきて、ぼくの顔みるなり、いきなりえらい泣き出してなぁ。お母ちゃんのごっつい手で顔なでられるやら、手握られるやらで大変やった。せやけど、お母ちゃん、あの映画の主人公よりももっともっとしんどかったと思うんや。」

このあとすぐWは本名を奪いかえす。
高校卒業後、現在彼は、日本の工業の中枢に位置するM重工(この年初めて、外国籍生徒へ門戸を開いた)に本名で働く。新入工員の体育祭で指揮台上でラジオ体操の指揮演技をする。名札は本名Wである。
(余談だが、ダウンタウンの松本人志は、尼崎市立潮小学校、尼工でのWの確か2年下の後輩である。教育大付属池田小学校事件の宅閒守死刑囚は松本と尼工での同級生で松本は機械科A組、宅閒はC組、この二人を私は機械科実習で教えている。宅閒は中途退学している)

日本の企業に入っていくことについてWはこうのべていた。

「ぼくは同胞の企業に入って働くのが筋だと思うけど、同胞の企業いうてたくさんないし、日本の企業に入って技術しっかり身につけたい。本名で、身さらして入っていく、このことが後輩に道をつけることになるし、同胞の人たちと手をつないでいく道でもあると思う。ずっと将来になるかも知れないが祖国のためにその技術生かしていきたい」

しかし、彼は幻想は持ってはいない。自らのことをこうしめくくる。
「おかあさんは字奪られた。青春とられた。働いて働いて力とられて病気にされた。おとうさんは、スコップもたされ、南太平洋に連れて行かれ、人殺しの大砲の弾運ばされた。そして何の補償もないまま、障害者にされた。おかあさんは、俺と話してる時、口ぐせのように「もう話にならんわ』ってこぼしよる。 それを俺は一生その『話にならん』のを話にして受けついでいくぞ。これから父母にしてもらったことを忘れんように。早く両方とも楽にさせんならん。」

4. 親父は五〇歳をすぎて夜学へいく

 1975年2月28日に行なわれた卒業式でのクラスの卒業証書受領代表は、クラスから推薦されたSとWがお互いに譲りあう。結局は
『小・中学校・産技学院の時でも本名の書いてある卒業証書は友だちには見せられなかった。けど尼工のは堂々と見せあいできる』
というSが登壇した。式場の中央後ろに、あでやかなピンクのチマ・チョゴリのはえる、ガッチリした母の姿があった。Wの母であった。(実はお母さんと私である約束をしていた。それはW君が卒業の時、お母さんから見て、いい朝鮮の青年になったと思えるようになったら、卒業式の日に、チマ・チョゴリを着て参列してくれませんか、とお願いしていた)。式場から退場する息子に注がれる熱い視線は子どものために命かけて生きてきた朝鮮の母のそれであった。Wの母のすぐ横に、三ヵ年皆勤で表彰された西宮の被差別部落出身生徒Nの父の、真っ黒に日焼けした姿があった。WとNはともに同じ工業大学の二部(夜間大学)に合格していた。Nの父もWの母と同じ五〇歳である。その父が今年息子と入れかわって高校生になる。小学校を卒業して36年目である。 昼間土木工事をやりながら、西宮の定時制高校に入学するというのだ。

父――おまえが昼、市役所で働きながら、夜間大学に行くようになったら、父ちゃん酒やめるわ。
息子――そんなことしたら親父、楽しみなくなってしまう。
父――いや、実は前から考えてたことがあったんや。父ちゃんも、おまえに負けんと勉強していくんじゃ。この部落いうのん誰がつくりよったんか、何のためにつくりよったんか、とことんまでつっ込んでいきたい。皆んな許してくれるか。
息子――もちろんや、けど身体大丈夫かな。

父は担任にこう言う。
「これまで子どもを育てんならん、授業料かせがんならん、いうはりがあったから、四年前に高い所から落ちて背骨痛めてもう身体ガタガタなんですがね、ここまでやってこれたんですわ。 末っ子の息子が社会に出て嬉しい半面、またさみしさもあるのです。あいつは私が言うのもなんですが、たいした奴です。家にお金があれば昼間の大学にいく実力をもっとるからやらせたかったのですが文句の一つも言わずに一番しんどい道を選びよりました。私も息子と同じ地点に立ってやっていきたいということです。息子と競争ですわ。」

Nはそんな父の思いを全身で受け止めてがんばってきた。そして自ら部落出身であることを明らかにして、市役所に応募して、見事合格してきた。WはNの父の話を母にする。母は一瞬息をのむ。“生きていくことにかけては誰にも負けん。けれど鉛筆持ったらヘナヘナとなってしまう”と言っていた母は

『実は私も、文字読めるように、書けるようになりたい』

とフッともらす。 今はWは母に文字を教えている。そして母からウリマル(朝鮮語)を学び始めたという。この母も尼崎の定時制高校に来春、入学予定である。

 クラスの一名の被差別部落出身生徒、四名の在日韓国・朝鮮人生徒を含めて、全員が、自分の一番しんどい事実に向き合って進路を切り開いていった。このことは、確実に、自分のふるさとを誇りにしていく道筋、自分の親を誇りにしていく道筋だと思う。この確信をとことん手離してはならぬと思う。(1975年4月、33才記述)
<明治図書 解放教育新書6 はるかなる波涛――在日朝鮮人生徒の再生にかけてーーに収録>
<朝鮮研究 号・1975年 月号に収録>