9期・ 喜寿〜傘寿文集

テーマは
「喜寿or傘寿を迎えて、いま考えていること、高校時代のことで思い出すこと、近況、話題提供など」でなにを書いてもらっていいテーマになっています。写真なども一緒に投稿下さい。

<1組>

  1.阿部 公二

  2.青山 雅俊 

  3.浅野功市郎

  4.伊東 正光

  5.池田 勝彦   河井昭治君追悼の記

 - 2019年10月8日、一回忌に -
 歳月不待人。君が天に召されて早や一年が経つ。君が今、彼の国でどのようにして日々を過ごしているのか、ぼくは容易に想像がつく。君は若い時に遊び足りなかった分を取り戻そうと、思いっ切り羽をのばして飛び回っているに違いない。河井、そんなに急ぐことはないよ。少し冷静になればわかるはずだ。邪魔する人は誰もいないし、時間の制約も全くない世界に身を置いているのだから、もっとのんびり遊ぶようにしないと息切れしてしまうことを忠告する。
 昭和33年4月、君と僕は追手門学院高等学部に入学した。君は天王寺の夕陽丘中学校から特待生として入ってきた。僕は“追手門漬け”の9期生としてエスカレーター入学をした。そしてそれは僕にとって、君との運命的な出会いとなった。僕は商家の一人息子として育ったせいか親も、僕自身も、大学受験を見据えた高校進学についてあまりにも不勉強で、無試験でそのまま高校に上がれるなら、それでよしと思っていたのである。もし僕が外部の高校を目指していて、一方で君が追高の特待生制度を選択していなければ、この出会いは成立しなかった訳だ。
 追高に入学して数か月の間、君と席を並べて授業を受けたり、体育実技や、ホームルーム、部活動を共にしていて、僕は君にはただただ驚かされた。それは君の類まれな才能についてである。世の中にはこんなにすごい人間がいるんだと実感した。僕のそれまでの人生における行動範囲が狭かったのかもしれないが、君に出会うまで君のようなAlmightyな人間を見たことがなかった。とにかく君は何をしてもアヴェレージを遥かに超えていた。第一に、勉強は抜群によくできた。卒業するまで君の口から家でも勉強するとは聞かなかったのに、いつもトップクラスの成績を維持していたから、君の授業中の集中力は並外れたものだったと思う。次に、君の運動能力にもびっくりさせられた。跳ぶ、走る、投げる、のどれもがバランスよく優れていたから、陸上の五種競技の選手を目指していたら、近畿大会ではいいところまで行ったに違いない。また、音楽のセンスも秀でていた。赤井先生率いるブラスバンド部で、トランぺッターとしてあの有名なスーザのマーチ曲を吹いていたのを見て、僕は血が騒いだことを今でも鮮明に覚えている。一方で君は書物をこよなく愛した。特に君は学校の図書室においてあった西洋の文豪の全集ものを、ゲーテ、トルストイ、バルザック、ロマン・ローラン等々片っぱしから楽しげに読んでいたね。僕は読むスピードが君の半分にも満たなかったから、借りる本も少しずつだったけれど、それでもよく君と図書室に入り浸っていたものだ。
 有り余る体力を持て余していたのか、君は二年生になって間なしに「陸上部に入れへんか」と僕を誘ってきた。僕も走ることは好きだったので、一緒に陸上競技をやることにした。当時の陸上部は、部室はあったけれどもさしたる規律や伝統もなく、顧問の先生(神谷先生)もおられたが、ほとんど顔を出されることはなく、2名ほどの先輩が時々練習を見てくれるだけで、部員はめいめいが各自のメニューを決めて、やりたい種目を好き勝手にやっていた。よく言えば自主独立の精神がそこには在った。君は短距離のダッシュやインターバル走、三段跳び、やり投げなどを、僕は800メートル、1500メートルの中距離走を下校時間が来るまで黙々とやっていた。「継続は力なり」というが、自らの限界に挑戦するわけでもなく、無理しない程度に楽しんで練習していたので、過酷なトレーニングを積んだ他校のアスリートと違い、二人とも対外試合では全く振るわなかった。余談になるが、高校駅伝の府予選が大阪湾岸沿いで催された時のこと、僕は7区(5KM)のアンカーを任されていて、そのための練習を積んでいたのだが、本番の前日にアクシデントにより4区(8KM)の選手が出られなくなり、当日になって急遽僕が4区を走ることになってしまった。結果は最悪で、ペース配分の失敗がたたり、意識もうろうとしながらやっとの思いで次走にバトン渡しをした。急な変更というツキの無さを嘆くとともに、己の力不足を痛感し、とても悔しい思いをしたが、並走のワゴン車に乗せられて、マネージャーの速水さんに介抱して貰ったことがせめてもの救いであった。
 夏休みに入って僕は、家の事情で一か月ほど南海の伽羅橋駅に近い知り合いの旧家に居候したことがあった。そのお家は伝馬船を一艘持っていて、家人から艪の漕ぎ方を教わった僕は、すぐそばの水路から羽衣の海に出て、海岸沿いを行ったり来たりしては楽しんでいた。そんなある日のこと、君が訪ねて来てくれたので例によって船で海へ出て、二人で交互に漕いでは波間に揺られて一時間近く遊んだ。少し疲れたので、防波堤に腰を下ろしてとりとめもない話をしていたら、地元の愚連隊風の兄ちゃんに「メンチを切った」とすごまれた。その兄ちゃんをちらちら見ながらしゃべっていたためらしかった。かなりな迫力ですごまれたので、えらい怖い思いをしたね。あの時程陸上競技をやっていてよかったと思ったことはない。またその旧家には離れがあって、そこに新婚ほやほやのカップルが住んでいたのを覚えているだろう?暑い最中だったから、若いお嫁さんが薄着でウロウロしている様子を眺めて、初心な二人は妙に興奮して、心臓がパクパクしたものだった。
 世間のおおよその高校生が受験に向けて勉学にいそしんでいた三年生の秋、僕たちは相変わらずあの狭っくるしい小学部のグラウンドで陸上の練習に明け暮れていた。今にして思えば、思考回路をシャットアウトしてただ黙々と走る行為が、時として虚無感や厭世観が漂っていたあの高校生活からの唯一の逃避場所だったのかもしれない。5~6人で練習中に誰言うともなく、ちょっと休もうということになり、テニスコートの北側の町工場との間で一服したことがあった。ただの休憩ならよかったが、煙を吐いて一服したものだから工場の人に通報され、即刻謹慎処分となった。僕も行きがかり上、頭を丸め始末書を清書して、改心を装った。処分を受けた中で、君だけは特待生という立場が災いし、君自身も窮地に陥ったし、お母さんにもご苦労をかけたと思う。期末テストが目前だったにも拘らず、授業も受けられずに家で謹慎していた僕は、内藤さんたちにいろいろ教えてもらって助かったことを思い出す。
 卒業も真近になって、クラスの全員がアルバムにめいめいの思いを寄せ書きしたことがあった。僕は月並みなことしか書かなかったが、君のメッセージはウイットに富み、存在感があった。その内容は「よく勉強して悔いないよ Wet Boy 河井」というものだった。それを見て僕は、京大合格を目指していた君に「少し遊び過ぎたかな」という悔悟の念があることを感じた。「よく遊んで悔いないよ」と本音を書いてしまっては面白くもない。それをパラドキシカルに表現したところに複雑な思いが出ていて君らしい。つぎに続けた「Wet Boy 河井」は、明らかにそれに呼応して「Dry Girl 00」と記してくれるであろうノリのいいクラスメートの登場を期待してのことだったのだろう。折角の軽妙な演出にもかかわらず、マドンナが現れなかったことは、ただただ残念というしかない。
 受験シーズンに突入しても僕たちは相変わらずよく遊んだ。特に君はそれまでと何ら変わることなく、よく遊んでいた。結局君はもう少しのところで志望校に入れず、現役で京都工繊大に進んだ。その進路について、決して本意ではなかっただろうが、君の人生観からすれば許容できる範囲のものだったに違いない。一方で僕は自分の思いとはウラハラに実力不足がたたり、在京の私学に入れず「一敗地にまみれて」浪人生活を送ることとなった。それから一年間、僕は家から一歩も出ることなく鎖国状態で、死にもの狂いで勉強した結果、昭和37年4月にめでたく志望校に入学できた。素晴らしい成果を収めたスポーツ選手が、その積み上げてきた努力に対して、「自分で自分を褒めたい」と言うことがあるが、そういう心境を味わった。ただその一年間は外部との接触を一切断っていたので、昭和36年度は手帳に書き留める出来事の何一つない空白の一年となり、その代償の大きさも同時に味わうこととなった。
 いきものがかりのヒット曲「Yell」の中の「ともに過ごした日々を胸に抱いて、飛び立つよ 独りで未来(つぎ)の空へ」という言葉どおり、昭和36年3月、君も僕も、そして9期生全員が追高とサヨナラして、それぞれの世界へ旅立ってもう60年になる。思い起こせば、半世紀をゆうに超える歳月を経たいま、君との出会いによって得たものが、僕の人生にとってどれほど大きいものであったかを痛感するとともに、その出会いに感謝の念を禁じ得ない。君は理想主義者でもなく、かといって現実主義者でもなかったが、自分の人生観をしっかりと持ち、決してそれを人に押しつけることはなく、日々の言動に忠実に表現していた。他人に迎合することはなく、こびを売らず、モテようともせず、君はただひたすらに君流の哲学を実践した。君は片時もボケっとしていなかった。いつも「時」を楽しんでいた。才能の塊りのような君は、その豊かな才能を誇示することもなく、リーダーシップを発揮して皆を導くわけでもなく、いつも温厚で、穏やかだった。僕は君と接していて、世の中にはこんな素晴らしい人間がいるんだなと思ったし、いつかは僕も君のような人間に近づけるよう努力しようと思った。喜寿を迎えるにあたって、僕がほんの少しでも君に近づけているとしたら、こんなうれしいことはない。
 “遊びの達人”河井昭治君、本当にありがとう。どうか思いっきり遊んでくれ。君なら永遠に遊び飽きることがないことを保証する。のんびり遊べよ、息切れしないように。合掌。
(先日河井君の追悼文を奥様にお送りしましたところ、本日奥様から以下の通り電話がありました。
10月5日の土曜日に一回忌の法要を家族そろって執り行なったとのことです。ご家族で追悼文を読まれて、涙しましたとのことです。喜んで頂けて、私もうれしく思いました。クラスの喜寿の文集に記載することについては、ご賛同を得ました。)

    

  6.出羽 昭彦  

  7.稲田 孝久

   永眠<2021(令和3)年1月>

  8.井上 敏男 

  9.岡  昭

   <連絡先不明>

  10.加茂野絋三      

  11.海部 孝治

  12.片岡健太郎

  13.河井 昭治  

  14.川畑 敏郎

   永眠(<2004(平成16)年11月>

  15.北山 勝英

  16.倉田 維晴

母・倉田こずゑのこと    2009.8.10 母の葬儀で母を語った内容に加筆しました

<2009(平成21)年8月5日(水)葬儀(阪急京都線南方駅近くの北大阪祭典にて仏式の無宗派形式)で親族代表としてその人生を要約して語った内容を元に加筆しました。(喪主の兄・祐二は通夜で挨拶、この30年間を母と離れて千葉で生活しています。この話の内容の前半のほとんどは私の子どもにも語っていませんでした。)>

♡大正4(1915)年10月1日 奈良県桜井市浅古(明日香村の隣の地)の農家に生まれる(4男2女の兄妹のうち上から3番目の長女)。
♡近所に箏を弾く人がおり、その音を聴くにつけ自分も箏を弾きたいと父に願い、箏を習い始める。
♡20才頃 2才上の兄・補(おぎの)さんが大阪で漢方薬の販売店や鍼灸院を開業したのを手伝うため大阪に出る。お客として来店していた橋本豊二(石川県松任市(現在は白山市)漆島出身、京大理学部卒、当時の大阪市立桜宮高等女学校<現在の大阪市立桜宮高校>校長)と出会う。豊二の姓は吉本、旧制天王寺中学校(現在の天王寺高校)の先生(後に教頭)の頃、橋本家に養子縁組して橋本姓となっていた。
♡箏の師匠の資格を得る(師匠名:菊園こずゑ、後には菊泉こずゑ)。
♡昭和13年9月(22才)長男・祐二(すけつぐ)を東大阪市俊徳道で出産(戸籍上は吉本勝二郎<豊二の甥で当時、奥様を亡くされていて独身だった>と結婚して、その次男として産れたという形式をとる)<祐二によると、橋本豊二が母を気に入って、その長男と見合いさせ婚約した。ところが北海道大学を卒業し戻る時、下宿先の娘妊娠で大騒ぎになり母とは破談になった。当時桜井では庄屋・倉橋屋の長女が嫁ぐと発表されており、破談は困るとなり、双方合意の上、豊二が面倒を見ることになった。表向きは吉本勝二郎との結婚になった、という。豊二の次男は後の近畿日本鉄道の副社長の橋本  氏。偶然だが維晴の大学院時代の指導教官の金森順次郎氏の父親が近鉄の社長の時の副社長。金森氏は長男の妊娠事件をよく記憶されていた>
♡昭和17年12月(27才)次男の私・維晴(まさはる)を八尾市山本で出産(勝二郎が再婚するため、昭和15年戸籍上離婚、除籍。橋本家は鴻池(?)分家の大資産家でその財産散逸を防ぐためか認知されず。
♡昭和22年12月橋本豊二死亡(62才)こずゑ32才。それまでの裕福な生活から一転、裁縫や箏の師匠として生計を立てるが、敗戦後の混乱の中生活が窮乏化(祐二名義の農地<祖父・佐太郎が耕作>・山林などの財産が多く残されたが、不在地主の農地として農地解放で国に没収されることを避けるため、祖父名義に変更、祖父死亡時に祖父財産として処理・売却されてしまう。その地は今、奈良県立桜井商業高等学校となっている)。
♡昭和24年秋(34才) 箏の演奏会で尺八奏者の桑島秀樹(鞄の錠前を製造する町工場の社長)と出会う。その支援で大阪市生野区林寺町に移転(桑島家の住宅兼工場の2階に住まわせてもらう)
♡昭和26年5月(35才) 長女・政子を生野区・南生野町で出産。この後、桑島秀樹のわずかな仕送りを約5年間受けるが、生活は困窮し、母は裁縫、箏の師匠、ワイシャツ襟の汚れ防止アタッチメントのボタン取り付け・封筒貼り・風船をふくらませて宣伝用のスタンプ押しなどの内職、自動車整備工場の掃除婦、パーマー液の行商、化粧品工場での包装作業などで朝から晩まで、必死で働く。子どもたちも、幼い頃より新聞配達、たわしなどの日用品を和歌山県の新宮あたりまで売りに行く「学生アルバイト」という行商、餅つき屋手伝い、母の内職の手伝い、家庭教師などで働き家計を支える(祐二が新聞配達を始めたきっかけは、小学校6年での修学旅行の積み立て金を納めるために、母が生野本通り商店街の質屋に着物を入質してるのを知ったこと)。

 私が中学生の頃、クリスマスツリーの飾りのパーツを作る内職をしたことがある。色づけしたガラス玉の穴に針金を通してキャンドルらしく組み立てるのだが、難しくて1週間くらいかけても50個位しか作れなかった。母と幼い妹と3人で天王寺まで持って行ったところ100円ほどの手当てがもらえた。母が「これで牛乳とおいしいパンでも買って食べようね」と言ってくれて、3人で手をつないで帰ったことを覚えている。生きていくのは、かくも辛いことかと思うことが何度もあり生活は非常に苦しかったが、私たち子どもを守ろうとして必死な母の姿に、子どももこの母を守らねばと思い、母子4人で硬く結束してかろうじて生き延びてきたという状態だった(生活保護という公的な支援制度は、母の主義だったのかわからないが、何故か受けなかった)。

 やがて兄が生野工業高校を卒業し松下電器に入り結婚して家を出、私も結婚して大阪大学理学部の博士課程中退して兵庫県の高校教師になり、妹が勝山高校から郵便局員になり結婚して家を出る。母が生野区で一人住まいになり、あまり動くこともなくなり、正座しているのが多かったためか膝の関節が痛いと通院しきり(一人住まいは約2年間)。

昭和52年8月(61才)三男の誕生の直前に、私が高槻市富田町で自宅購入。これを機会に富田に移り6人世帯になる(生野区での母の居住は28年間)。妻も追手門の高校教師として勤務、三男誕生直後で、赤子の世話、子どもの保育所への送り迎え、家事などで全面的に助けてもらう。

生野のお琴の教室に週に2日出向いたり、富田の桜祭りでの演奏活動の一方、家の近くに貸し農園があり農作業に励む。俳句の同好会、老人会活動で活躍。11年前(こずゑ83才)から琴の稽古は政子が菊泉政子として全面的に引き継ぐことになった。

こずゑ俳句集より
孫の土産 汗と泥との 野球服      タマネギを 束ねて終わる 夕茜

膝の調子は良くなったが心臓の弁に異常があることが85才頃わかる。
平成15年11月(88才)米寿を祝う会を大阪城横のツインビル38階の東天紅で開催(俳句集発行)

生かされて  八十八年  迎えける  箏曲の道  一筋生きん

平成16年5月(88才) 今から5年前、政子の家族で箕面市に花や花木が多く植わっている広い庭付の住宅購入。2階に眺望のいい広い和室があり、ここを母の部屋にしてもらい一緒に住むことになる。箕面市今宮4丁目の今の家に移る(高槻富田での居住は27年間)。

平成21年5月(93才) 月に1回の心臓検診で通院した日に、母と私で、箕面の映画館で映画「おくりびと」を鑑賞。昨年くらいから「私は何才まで生きられるの?死ぬときは苦しいの?」とよく私に聞く。「息が詰まるのだから一瞬だけは苦しいかも知れない」と言っても、軽い痴呆が始まっているのか、すぐにまた同じ質問をするので困る。「死」への恐れがそう言わしめていたのか。それがこの映画を観てから一切この質問をしなくなる。死を迎えても親しい人に見守られる中、納棺師が遺体を清めてくれ、美しくし化粧してもらい、そのお別れの会をめぐって親族やお友達が諍いを解いたり、集う機会が生まれるという心洗われる映画で、「いい映画を見せてもらった」と言っただけだがなにかが吹っ切れたのだろうか。(北大阪祭典でこの4日にこの映画に勝るとも劣らない心のこもった湯癇と化粧と納棺の儀式をしてもらう)。

平成21年8月2日(日)(93才) 母は真夜中に一度はトイレに行き(歩行補助具を使用)、その物音が聞こえるのにその気配がなかったし朝起きてこない、不審に思って政子が母の部屋に行くと、大きないびきをかいている。意識朦朧。救急車で箕面市立病院に搬送。何かの原因(2ヶ月前に、肺ガンが見つかっており、それが脳に影響を及ぼした可能性も医師は指摘)で傷ついた血管からの出血で脳内にこぶし大の血液だまりがあることが判明。以前より心臓弁膜症のため血管が詰まらないよう、血液が固まりにくい薬・ワーファリンを服用(出血しても血が固まりにくいので出血を注意されていた)。脳内出血を止める薬を投薬すると今度は血管が詰まる恐れがあり、開頭手術には心臓が耐えられないと判断、そのまま見守るしかなかった。酸素マスクをしてもらっていたが、呼吸が苦しそうにしているときに箏の演奏の音楽を病室に流すと少し呼吸が楽になったようだった。意識が回復することはなかったが、私が母の手を握りながら、耳元で「頑張って僕らを育ててくれて本当にありがとう、生んでくれてありがとう」と言ったときは、私の手を握り返してくれたように思った。

 <私が最期に母の言葉を聞いたのは7月29日(水)母の昼食の世話(7月から週に1,2回出向く。政子は昼間は自転車で10分の距離の家業の電気店で働く)で箕面に行き、母の好きな琴の音楽を聴きながら、鰻丼とそうめんを二人で分け合って食べて、メロンを二つ割りにして、大きなスプーンですくって食べさせたが「おいしい」と言ってよく食べた。この日4時間を一緒に過ごしたが、母の言葉は、友人だった方々の一人ずつの安否を尋ねたり「まろちゃん(私の三男)の結婚の相手はまだみつからんの?」最期は「多美子さんは畑、頑張ったはる?よろしく言ってね」であった。>

平成21年8月3日(月)午後10時2分(死亡診断書では10時8分)心拍数が徐々に上昇して140まで高まる。身体状況測定器の非常ランプが点灯しつづける。やがて心拍数が徐々に下がり初め、肩で呼吸していたのが胸だけの呼吸になりやがて呼吸停止。血液中の酸素濃度が零になる。その数分後、心拍数が15までゆっくりさがり一気に零となった。子ども3人、孫3人に見守られた静かな臨終で、眠るように旅立っていく。93年と10ヶ月と2日の人生で、現在子ども3名、孫10名、ひ孫5名が残される(政子の次女・亜紀子の懐妊が葬儀の日の午前に確認される。亜紀子がその報告を手紙に書いて棺に納める)。

今日生きて 陽に掌(て)を合わす 夏の朝      仏の掌 広大無辺 日向ぼこ

 母と私たち子どもは一生懸命頑張ってやってきましたが、何とかやってこられたのは、親戚の皆さん、友人の皆さん、お琴のお弟子さん、近所の皆さんはじめ多くの方々のご支援、お励ましがあってやってこれたと思います。皆さまに篤く御礼申し上げます。有難うございました。                  

 <祐二の用意していた挨拶メモによると、挨拶の骨子は「(子供の出生や極貧時代のことには触れずに)私は当時貧乏という認識がなかった、母子家庭が多く内職が常態化の時代でした。新聞配達のおかげで高校陸上部主将をやり松下電器に入れ、実業団駅伝選手として人脈を作り、内職で手先が器用になりいまだに詳細な図面が描ける、行商や餅つき屋で商売を覚えました。・・ご参列を賜りました皆さま方のお力をお借りし母を中心に全員力を合わせ苦境を乗越えた知恵が私たちの今日を作ってくれたと思っています」というものでした>    以上

  17.倉田 佳明 

  18.黒田 稔

   <連絡先不明 2011.7月確認>

  19.小山 勝

   永眠(<1998(平成10)年7月>

  20.多田 勝彦 

  21.平 鋼治 

  22.竹内 義宣 

  23.竹田 泰三 級友の思い出&近況

思い出

古希の文集がインターネットに上がったのは、2011.10.15。あれから約10年が経過、みんな歳をとりました。私も78歳が近づいてきました。もう大分前からぼけが始まり、二階の書斎から何かをしようと階下に降り、ついでのトイレに行くと何の目的で一階に降りてきたのかと思うようなことがたびたび起こります。そんなわけですから、高校時代の思い出を書こうと思っても、思い出は記憶の彼方に消え去り筆がなかなか進みません。皆も状況はほぼ同じで、原稿がなかなか集まらないのだと思います。そこで、卒業後もつきあいが多かった友人達の思い出をおぼろげな記憶をたどって書かせて頂きます。

中野儀人君

中野君との高校時代の思いでは、パスカルの神秘(または、不思議)6角形の問題を解こうと競ったことです。此の問題は、“円錐曲線に内接する6辺形の3組の対辺の交点は,一直線上にある”という、パスカルの円錐曲線論の基点になる命題で、パスカルは15歳の時に此の命題を解き、パスカル家に集まった著名な数学者達のサロンで、デカルト達を驚愕させた事で有名です。此の問題を生で解くとなると天才を必要としますが、此の問題を解くには補助線ならぬ、補助円が必要であるとのことを、ある数学雑誌で中野君と見つけ、一緒に解いてみようかと言うことになりました。補助円のヒントでもなかなか難しい問題ですが、中野君は30分ほどで解決法を見つけました。私は、中野君に遅れること数十分だと記憶しています。私の数代前の先祖は、武家にもかかわらず武道ならぬ和算学を関孝和の下で学んだへなちょこ侍で、その遺伝子は私にも伝わり数学は得意としてきました。特に初等幾何はすでに頭の中に書いてあるかのような錯覚を持っていましたから、中野君がすらりっと解いた事には驚きの感を押さえられず、中野すごいと思ったことを思い出します。

こんな記憶があったからには、きっと教室内では色々な会話を交わしたと思いますが、何も覚えていません。

彼との記憶が鮮明になるのは、卒業後です。中之島の阪大の講堂で彼のオーケストラの練習を遅くまで付き合ったことを思い出します。ベートーベンの第五番、「運命」の第二楽章の第二バイオリンのパートを繰り返し繰り返し練習しているのを前席に座っていつ終わるかと待っていて、最後には私が第二バイオリンのパートを口ずさむことが出来るようになってしまいました。練習が終わり、四つ橋通りを歩いて帰り、大阪駅の前でケネディ大統領が暗殺されたことを第一生命ビルの電光板のテロップで知り、驚いたのも彼と一緒でした。

彼とは頻繁に会いましたが、携帯がない時代にどのように連絡を取っていたのかと思います。いつかは、彼の家にちかい天王寺公園の芝生に座って話し込んでいましたが、前に座っているアベックがいちゃつき始めたので、どうも我々とは雰囲気が違うなと場所を変えたのを思い出します。しかし、このように市内で会うことはまれで、奈良や京都の神社仏閣を訪ねることが多かったように覚えています。いつぞやは、法隆寺を訪ね、その足で薬師寺、唐招提寺と徒歩で移動しました。松並木から薬師寺の東塔が見えて感激したことを覚えていますが、この辺の風景は当時と全く異なり、Google Mapで探しても当時の道を発見する事は出来ません。蒸気機関車が牽引する列車で、トンネルに入って、窓から黒い煤煙がもくもくと入ってびっくりしていると、数席前で花札をしているおじさんに、“そこの学生さん!早く窓を閉めんか”と叱られたのも彼と奈良方面を旅したときだと思います。私の本拠地、京都でもたびたび会ったように記憶します。有名な仏閣を訪れるよりも、名も知れないお堂の格子戸よりほこりをかぶった仏さんを見るのが悠久の時の流れを感じるようで好きでした。東福寺の山門の石段にすわってながく話し込んだのを思い出します。当時は、東福寺の山門の前は今のように整備されず、戦後の荒れた状態で広場になっていました。近くの子供達が遊んでいる中を赤とんぼが飛んでいた光景が今も脳裏にはっきり残っています。では、いったい何を話していたのでしょうか?私の下宿で、唯物弁証法による価値論、それに続く経済論のような堅い話をしたのは後にも先にもこの時だけで、もっと軟らかな話題で話し込んでいたように記憶します。私は文芸、特に英文学はかなりのものを原典で読んでいましたし、漢詩も唐詩選はもちろんのこと多くの漢詩を読み、そこから垣間見る古い中国の文化が好きでした。世界史もグレコローマンを中心とした歴史に興味がありました。恐らく彼も似たような趣味があり、そんなことを中心にいろんな話題を話していたのだろうと思います。彼と会った最後の記憶は、吹田学舎で白衣を着てバケツを持っていた彼の姿を思い出します。何を持っているのと聞いたら、屠殺場で馬か牛の血液をもらってきたところだと答えたのを思い出します。その後、研究所に入ったのか、どの程度の時間会っていたのか、どのようにして行って、帰ったのか、恐らく車だったのでしょうが、全く覚えていません。私の彼の記憶は白衣を着てバケツを持った彼の姿で途絶えます。高知医大を退官して再会していたら、お互いに医師としての共通の話題があり、楽しい再会が出来たろうにと思うと残念です。

西村 茂君

私の父は、戦前、大同生命の保険医をやめて、開業のため、豊中よりに大阪の旭区に居を構えました。私が生まれたのも旭区で、広大な城北公園に比較的近いところに住んでいました。追手門学院小学部に入学して通ったのも此の住居からです。学校の名前は、戦後の混乱期にあり大阪偕行学園小学校から大手前学園小学部、そして追手門学院小学部と短期間に名前が変わり、そのため大手前学園と名乗る先輩もいたように記憶します。西村君とは同級生で、お父さんが、城北公園のすぐ近くで鉄工所をしておられたのでよく遊びに行きました。私は、小学校の低学年で、父がやはり同級生の出原君(中学まで追手門に通っていましたので、中学部より上がった方は彼を知っていると思います)のお父さんのすすめで阪急沿線の園田に引っ越しましたので、西村君と学校帰りに遊ぶことはなくなりました。しかし、高校時代、どういうわけか西村君家族がやはり園田に引っ越し、休みの時はよく一緒に遊ぶようになりました。休みの日には、西村君の家の近くにある猪名川自然公園で遊びました。当時は、猪名川の水流は少なかったですが、清流で川底が見えるようでした。川幅も比較的狭く、両脇から生い茂るうっそうとした樹々で、昼なお暗い感じでした。西村君とは、玉石で広くなった川岸を我々の特等席として、いつも自転車を止めて休みました。色々な話をしましたが、女性経験では大先輩でうらやましく聞いていました。卒業後は、かれは確か大阪府立大学工学部に入学、私とは方向が異なり会うことがなくなりましたが、どのような伝手で私が高知医大を退官することを知ったのか、高知の家に電話かけてきて、家内に退官後の私の動きを聞いたようです。西宮の住居もまだ決まっていなかったですが、その後、それも調べて連絡してきて、私の帰阪を祝う小宴を催してくれました。かけがえのない良い友人でした。確か、彼は仕事の都合で東京に居を変えたため、再会する機会もなく悪性リンパ腫で逝ったのは返す返すも残念です。

伊東正光君

高校時代、最も言葉を交わしたのは伊東君ではないかと思います。伊東君は数学好きで、よく大学受験雑誌の「大学への数学」やZ会の新作問題をパズル感覚で解き合いをしたものです。3学年の席は廊下に近い北側で、伊東君は私の前の席、同じく数学好きの山本正臣君の席もすぐそばでした。数学好きのものにとっては大変楽しい最終学年でした。平君や阿部君の席も近く、受験問題に頭をひねることも多かったと記憶しています。伊東君とは西日本学力コンクールの模擬試験を受けに、当時、石橋にあった阪大教養学部によく行ったものです。長い長い阪大坂を一緒に上ったことを思い出します。私も伊東君も、そして山本君も受験に失敗。一緒にYMCA予備校に通いました。伊東君とは帰る方向が一緒で土佐堀より梅田まで歩いて帰ったものです。伊東君は東京理科大に行ったのでその後会うことが出来ていません。一期校はどこを受けたのか忘れてしまいましたが、理数科の能力ではどの国立大学でも上位に位置すると保証します。一度、同窓会の名簿よりmailをしましたが返事をもらえませんでした。元気にしていたらいいのだが。山本君はおとなしい人で、予備校時代の思い出は希薄ですが、早稲田の理工学部に入ったように記憶しています。彼はすでに鬼籍に入り、会うことがかなわなくなりました。

井上敏夫君

井上君とは中学部時代からの友達ですので、学生時代の思い出もいろいろありますが、濃厚な思い出は卒業後です。高校を卒業すると、井上君の家が皆(私、出羽君、辰巳君たち)のたまり場になりました。お家は梅田新道を東に二筋ほど入った道沿いにあったように記憶しています。巽君のお家(お寺?)も近かったです。何かあると、皆、井上君のお家の二階に集まりました。確か、二階の物干し台には伝書鳩の小屋があり、鳩がたくさんいたように記憶しています。若いと言うことは素晴らしいというか、他愛もない話題でわいわいがやがや、皆、井上君の家に集まり、時間を過ごしました。お家には、井上君のおばあさんがおられ、お茶などを出して頂いたと思いますが、あまり目立たないようにされ、我々の好きなようにさせて頂きました。話に飽きると新地にお好み焼きを食べに行ったり、近くある“とん平焼き”を食べに行ったりしました。
ここに集まるグループでキャンプにも行きました。瀬戸内海の家島諸島、西島にキャンプに行ったことを思い出します。姫路の港から船で一時間、こんもりとした緑の森に包まれたきれいな島でした。船には、児童映画を撮るとかで船長さんの服をまとったかわいい女の子が同船していました。何かこれからのキャンプは楽しいものになるのではないかとの予感を感じましたが、現実はそんなに甘くはなかったです。
難点1.遠くから見たこんもりした森の下にみえた白い崖は、水際は岩場であることを意味していました。よって、テントを張るのも平地ではなく、でこぼこした石の上で寝ることになり、なかなか寝付かれない夜を過ごす羽目になってしまいました。
難点2.海に入っても、岩場で休むところがなく、すぐに上がってこなければなりませんでした。
難点3.島の緑の森は我々に日陰を提供してくれませんでした。陸に上がっても、甲羅干しならぬ甲羅焼きになってしまいました。
難点4.岩場で飲み水の採取がままならず、崖の麓にわき水がわいていましたが、ボウフラが発生、それを避けて水をすくい、半合を炊かなければならなかったです。眠られぬ夜、耳を澄ましていると、時々、落石の音が聞こえます。最初は誰か崖の上に人がいるのかと思っていましたが、自然落石の樣でした。お空は満天の星でしたが、落石の不安に加え、ヤブ蚊の攻撃に参り、ゆっくり星を見る等の悠長な気分にはなれなかったです。誰かが携帯ラジオでニュースを聞いていると、日本に台風が接近しているとのことでした。台風のコースが瀬戸内海を通ると言うことではなかったのですが、皆の意見は一致、”明日帰ろう!”となりました。翌年は、これに懲りて、福井の越前海岸に行きました。こんもりした松林、林の中からきれいな砂地で、疲れたらゆっくり昼寝が出来ました。遙か彼方まで延々と広がる砂浜、海は遠浅ではありませんでしたが、昨年と比べると二重丸、大いに満足しました。

井上君が立命館大学工学部を卒業すると、我々、悪童のたまり場は井上君のおじいさんがしておられるウナギ蒲焼き店「菱竹」に変わりました。井上君が、おじいさんの下で働いて、ウナギを焼く修行をするのだと云うことになったからです。我々も、お店ですから以前より少し大人しくしくなりましたが、井上君に、“工学部を出てウナギの蒲焼きか”と悪態をつくと、ウナギの蒲焼きは10年早いとのことでした。今は、卵のだし巻きを作る修行をしていて、まずこれで1年は頑張らなければならないとのことでした。結局、井上君が作ったものを食べさして頂いたのは、卵のだし巻きの試作品、いや、不良品だけでした。そうこうしているうちに、井上君のお家が西宮北口に変わりました。広田神社の御手洗川沿いの立派な和風のお屋敷でした。当時は、このあたりは家も少なく閑静な場所でした。皆が集まるのはこのお家になりました。阿部君も慶応大学を卒業して、松屋町の家業を手伝うようになっていましたから、此の集まりに参加。やはり、2階の部屋だったでしょうか?以前と同様、わいわいがやがや、とりとめない話をして楽しみました。一度、広田神社の新池に散歩に行こうと云うことになりました。今は住宅がたくさん建っていますが、当時は六甲の麓で松林でした。新池の周辺は高い松林で、満月の日でしたが、池の周回路では足下がよく見えずおうじょうしたことを思い出します。私は、今、ここより少し山手、冑山の麓に住んでいますが、昔の風情が好きです。井上君のお家は、阪神大震災で倒壊したとのことでした。立派な屋根瓦の重しが災いしたのでしょう。井上君の話では、私たちが大変お世話になったおばあさまがこの時亡くなられたそうです。心からご冥福をお祈りします。

長々と昔話を書きました。記憶違いもあるかもしれません。だんだん薄れていく記憶を文に残しておこうと思い書きました。喜寿文集、原稿の集まりが少ないようなので、二年ほど前、京大同窓会で書いた近況報告を手直して、私の近況を報告したいと思います。

近況

西宮市立中央病院を約2年前に退職しました。市民病院には五年ほどの勤務かと思っていましたが、10年という長きにわたって御世話になりました。市民病院での勤務は、医務顧問というpositionでしたが、週三日の仕事でした。往診などで、階段を上下することはありましたが、あまり運動には成っていませんでした。しかし、全休となると、想像以上に運動不足で、元々出ていた腹がさらに大きくなったような気がします。週に1回ほど、甲山の麓にある神呪寺を散歩しています。このお寺には。小一時間で回れるミニ四国八十八箇所巡りの石仏群があり、散歩にはなかなか良いところです。

ただ、本堂に行くには、かなりキツイ階段を上らなければ成りません。夕方頃には、何度か見かけたお年寄りが、足を鍛えるためでしょうか、上がったり降りたりしている方がおられます。私の方は、まだまだ足は大丈夫(?)で、そんな苦行はしていません。

本堂にある展望台からは、大阪湾が一望に見渡せ、関空やあべのハルカスが見られます。

ある写真家に聞いたのですが、晴天に恵まれた時には、京都、如意ヶ嶽の大文字の写真が撮れるそうです。神呪寺の存在は、学生時代から知っていましたが、何か怖い名前の寺院だなと思っていました。そのいわれ、また、お寺の縁起は、高知時代の共同研究者のO先生を案内したときに判明しました。意外と、今に通じる話なので紹介したいと思います。

まず、寺号の「神呪寺(かんのうじ)」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を「神の寺(かんのじ)」としたことによるそうです。なお、「神呪」は本来「じんしゅ」と読み、「神秘なる呪語」「真言(仏様のお言葉)」という意味だそうです。そこで、開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」でありますが、当時より「感応寺」という別称もあったようです。お寺の創建は、天長8年(831)10月18日に人皇53代淳和天皇の勅願により、第四帝妃、空海より剃髪を受けた如意尼により創建されました。淳和天皇は、日本史では出てきたことがないぞ、思う方が多いと思います。しかし、阪急京都線をたびたび使う方は、「西院」駅は馴染みのある名前だと思います。これは淳和天皇の退位後の離宮(淳和院、または西院)に由来し、その一角が高山寺として今も残っているようです。これだけなら、「西院駅」の駅名由来の天皇かと云うことになりますが、淳和天皇が、歴代天皇と大きく異なる点は、納骨された御陵がない唯一の天皇であることです。

淳和天皇は死に臨んで、葬儀を簡略にすること、また自分が死後、鬼となって災いを招かぬよう骨を砕き、粉々にして山中に撒くよう言い残されました。これに従い、天皇のお骨は砕かれて大原野西嶺山にまかれたそうです。火葬された場所には、空堀を巡らせた方墳が築かれ、火葬墓とされ、向日町の人家の中にひっそりと存在します。また、淳和天皇の柩車を納めた物集女車塚古墳もその近くにありますが、何れも遺骨がないため陵墓参考地となっています。

では、何故、そのようなことを決意されたかということになりますが、それは平安京に遷都後、天変地変が頻発するようになった事にあります。竹取物語では、不老長寿の薬を不死山(富士山)で焼くことになりますが、それは富士山が噴煙を上げていた事を反映しているように、富士山は活火山であったようです。富士山の噴火は、平安時代では貞観の大噴火(864-6年)が有名ですが、淳和天皇も幼少期に延暦の大噴火(800年 – 802年)を経験されております。淳和天皇が編纂された日本外紀は散逸して、正確な記述は現存しませんが、当時は各地で火山の噴火や地震が頻発したようです。そこで、天皇は、先帝達の陵墓がある平城の地を捨てて平安の地に遷都したため、先帝達の霊が鬼となって祟っているためだと考えたわけです。これが、淳和天応が散骨を希望した理由です。しかし、散骨をされたにもかかわらず、淳和天皇の杞憂は、崩御29年後に貞観三陸地震で現実のものとなります。O先生は、向日町にお住まいでしたのでこのあたりの事情をよく知っておられたようです。

淳和帝の杞憂をまねたわけではありませんが、フィナンシャルタイムスが平安時代の地震と現在の地震の類似性を上げた記事がありましたので、参考に記事の図を引用します。

歴史の時間軸では10年は誤差範囲ですが、この図で行くと南海地震は2029年に起こることになります。フィナンシャルタイムスでは、この地域の地震は、日本経済だけでなく世界経済にも大きな影響を及ぼすだろうと警告しています。現実のものとは成らないことを祈るばかりです。

          退職を迎えた数ヶ月前から、患者さんによく聞かれました。“先生、どこで開業するの?”。開業はしないと答えると、“なんだ。先生の所に受診しようと思っとたに”。私の年を知らないのか、定年退職と思っていたのか、“急に仕事を辞めると、生きがいを失って、元気なくなるよ”と注意されました。その時は笑って聞き流していましたが、よく考えると患者さんの言うことも一理ある。そこで思いついたのは、神呪寺のミニ四国八十八箇所巡礼ではなく、本物の四国八十八箇所巡礼をすることでした。幸い、高知には家があります。高知のセカンドハウスを基地にして、本当の四国八十八箇所巡りを試みています。

実際、八十八箇所巡りをすると、今までの生活とは違った世界が見えてきます。まず、出会う人は何らかの挨拶をしたり声をかけたりします。中には長く話し込んで離さない方もおられます。昔の日本の姿を見る感じがします。霊場の仏閣も、深山にあるものが多く、京都の寺社仏閣とは違い、風雪に耐えた姿が印象的です。「おもてなし」の風習も印象的です。先日頂いた緑茶は、岩崎選手ではありませんが、「今まで生きてきた中で、一番美味しい緑茶」でした。きっと高価なお茶でしょうが、「お接待」の休憩所ではこともなげに無償で提供していただけます。外人の姿も増えてきました。このあいだは、ノルウェーから来られた方と話し込みました。これからどこへ行くのかと聞かれました。30 キロ離れた家に車で帰るというと、僕は徒歩なので近くに宿舎を捜すとのことでした。確かに、服装は同行二人と書かれた白衣を着ておられますし(お大師様さまとの同行です。白衣はどこで行き倒れてもいいように、死に装束です)、遍路には絶対必需品であるお大師さまの分身である金剛杖も持っておられます。それに引き替え、日本人である私と云えば、Tシャツにズボン。家内も似た姿です。信仰はありませんので仕方がないのですが、恥ずかしい思いをしました。では、何故、霊場を回っているのかと問われるとまた困るのですが、家内は御朱印帖を持っていますから御朱印の収集かな?私はといえば、多くの無垢の実験動物達の弔いためというのが正確なところです。そうそう、家内も実験に参画しましたから同じ気持ちかもしれません。

巡礼を始めて約2年。今年の1月14日、第88番札所大窪寺を回り結願成就となりました。この後、高野山に報告することになりますが、その後がありません。ヨーロッパの巡礼、サンティアゴ・デ・コンポステーラもすでに車で回っていますし。次の達成感が出る目標を探さなければと思っている今日この頃です。

  24.竹野 晃

  25.巽 寿一

  26.中野儀人 

   永眠<2011(平成23)年7月>

  27.中村 光憲

   <連絡先不明 2011.7月>

  28.西 真吾 

  29.西村 繁

  30.畑埜 武彦 

  31.福井 隆彦

  32.藤井 毅

  33.藤原 顕輔 

  34.傍士 研一 

  35.松居 秀興 

  36.山口 勝弘  

  37.山崎 公司

  38.山本 久臣

   永眠<2004平成16)年>

  39.雪本 敏治   

  40.雪本(博)

  41.横幕 宏治

  42.浅子(池田)成子

  43齋藤(池田)友紀子 

  44.長瀬(今津)文子

  45.中島(上野)明子

  46.西崎(清川)和子 

  47.仲 (竹林)幸子

  48.平岡(内藤)禮子 

  49.井尻(畑田)紀子

  50.岸本(速水)和子 

  51.古川(皆川)悦子

   永眠(<2007(平成19)年2月>

  52.芹生(森下)孝子 

<2組>

<3組>

<4組>