出羽/鮎釣り遭難記

昨年12月3日の1組定例会の報告の中で、鮎の渓流釣りで、出羽君が4年前に流されて死にそうになったと伝えましたが、その詳しい報告を出羽君が書いてくれましたので、紹介させて貰います。
『鮎釣り遭難記・第2話』から始めます。何かの危機の時に皆さんの参考になるかも知れません。その1年前の『第1話』は後日紹介します。
写真は日置川での出羽君です。

去る 12/3(日) 1時より追高9期生 1組定例クラス会が新梅田食堂街1階 「立ち飲み毎日」で開催された。オーナー井上君の好意で休日にも係わらず開店貸し切りで3時間半の長きに亘り飲食歓談を満喫した。参加は、青山、井上、倉田、竹田、出羽の5人、ビールグラスを傾けながらおよそ63年前の高校時代の思い出に華が咲いた。
趣味の話になり、井上君が山登り、中でも何百回も登って知り尽くした六甲山の四季折々の姿、佇まいの魅力を語ってくれた。次に僕が鮎釣りの経験、中でも川の怖さについて話した。

鮎釣り遭難記第2話

 (倉田注・第2話となっている理由は、この前年、鮎釣りの師と仰ぐSさんが同じ場所で遭難死された。出羽君が必死の救出を試みたがかなわなかった。この話が第1話である。後日第1話もアップします。この翌年、追悼で行った鮎釣りで今度は出羽が遭難した訳です)

僕は、魚釣りが3度の飯より好きであることをご存じの方はかなり多いと思う。その内でも50年来続けている清流での鮎の友釣りは最も好きな釣りであるがまた非常に危険な釣りの一つでもある。4年前の令和2(2020)年5月26日、日置川(和歌山県南部)の鮎解禁日に少し大袈裟だが「九死に一生を得る」経験をした話を持ち出すと、聴き手は異口同音に「えらい体験やなぁ」「死にかけたんやん」「そんな阿保はおらんわ」などと称賛ではなく非難の言葉を頂戴した。すかさず倉田君からこの話をホームページに公開してほしいとの要請 (宿題?) が出て、関心の無い方には甚だご迷惑であろうが筆を執ることにした。

日置川は和歌山でも屈指の大河であり水は清く、流域長く川幅広く流れの激しい箇所の多い川である。事故は、午後2時ごろに起きた。立ち込んでいた場所は、水深僅か太腿程度であったが流れは非常に早く、立っているのがやっとである。対岸の大きな石には野鮎の居付いている気配がして長さ9mの竿を近づけて待つこと数分、激しい当たりと共に竿が大きく曲がり野鮎が跳ね踊った次の瞬間、流れに足を掬われて僕の身体は仰向けにヒックリ返り激流に吸い込まれた。それからは正に悪戦苦闘、 深さは股下程だから何とか立ち上がろうとするが、早い流れは決して立たせてはくれない。暴れれば暴れるだけ背骨を軸にして身体が回転して顔が水面下に潜り、したたか水を飲み気管に入って咽せかえる。いつの間にか竿は3つに折れてしまい、腰の網は流され尾てい骨は打つは、膝頭は打つは、親指の爪は剥がれるは、散々な目に遭い酷いパニック状態に。これは死ぬかもと感じた時、もう暴れるのは止めよう、なるようになれと開き直りの境地に。そして仰向けの状態で手足を身体から少し離して浮かんでいると何となくバランスよく激しい流れに流されていく。 この状態でさらに100mほど流れると今までの荒瀬が終わって幾らか流れの緩やかなしかし、かなり深い水深2m位のトロ場に落ちた。 そこで気付いたのは、鮎釣り装束である、胸近くまであるスポンジ様のタイツが結構浮く、浮力が大きいのである。その流れが 50mばかり続き小さな瀬を潜ると、いきなり広々とした池のような淵に放り込まれた。流れを感じない位全く緩やかであるが紺碧の水は深さ10m以上かもと思わせる。ここまで来て僕はやれやれどうやら助かったなと胸をなでおろしたが、どっこい楽観は早かった。全く緩やかな流れのようでも僅かずつ右岸へと流れている。右岸に待ち受けるのは、すべすべの断崖絶壁岩肌で足元は底が知れない深さである。そこに到達しても助かるすべはない。一方、左岸は浅い岸辺が続いている。是が非でも左岸に向かわねばならない。そこで気付いたのは、履いているタイツの大きな浮力が足先から胸にかけて身体を水面から持ち上げる。結果として頭、顔が水面下に抑え込まれる。慌ててうつ伏せになってみるがやはり足が水面上に持ち上げられ顔が水につかり息ができない。首が痛くなるほど顔を上げてカエル泳ぎ、バタフライをへとへとになるまで続けて漸く左岸の岸辺にたどり着いた時には足は立たずよろよろよろめき。果ては這うようにして陸に上がり、思わず神仏に祈りを捧げた次第である。以上が河童の川流れ、危うく死にかけた顛末であります。
なおこの日は鮎釣りの解禁日ではあったが朝9時から納竿 (釣りを終了すること)した3時ごろまで釣り人の姿を目にすることは皆無であった。

 最後に流れの強い河川を対岸に渡る時の鉄則は、かなり川下に目標を置く。仮に緩い流れでも直角に渡ることは難しい。そして渡り始めたら決して足を止めないで流れに逆らわず流れに乗りながら(時には泳ぎながら) 目標に向かって斜めに走り切るつもりで渡る。立ち止まってはいけない。立ち止まったが最後足元を掬われて流される。流されて暴れると仮に1mに満たない深さでも溺れ死ぬことがある。

 鮎釣りのとんでもない裏技を一つ披露すると、9mの竿に9m の糸を付けてその糸の先に囮鮎を付けて泳がせ、川に居て縄張りを主張して攻撃してくる野鮎を引っかけるのが鮎の友釣りである。大事な囮鮎が川底の石や流木などに引っかかり取れないときにどうするか? 激しい流れに流されないように風呂の洗い桶位の石を胸に抱き、しゃがみ込んで息を止めて顔を沈め、ポイントに近づき、水中眼鏡越に鮮明に見えている鮎を外すや否や石を捨てて浮かび上がり、泳いで岸に戻る荒業である。僕は今まで5,6回この方法で鮎を回収した。ご退屈様でした。(出羽記・令和5年12月)

 <追記>
 私が鮎釣りの師と仰ぐSさんが水難事故で亡くなった遭難記・第1話の丸1年後、同じく解禁日に単独釣行した僕は、事故現場に線香を供えて手を合わせてご冥福を祈った後、釣りを開始した。Sさんを偲びながら、荒瀬に近づき良型の鮎を掛けた瞬間、流れに吞まれて僕の遭難が始まった。Sさんが亡くなられた全く同じ荒瀬である。もう駄目かなと思ったときは、一瞬Sさんが迎えに来られたのかも?と思ったが、助かった時には思わず手を合わせて「Sさん有難うございました」と呟いた。

 なお、この二つの遭難記は、先に第二話を書き、第一話が後になったため文章構成に変なところがあることをお詫びする。今年は82歳、ぼつぼつ竿を置く時がきただろうか。

鮎釣り遭難記・第1話

写真は鮎釣りの後、鮎の塩焼きを楽しむ釣り友です。

Sさんが日置川の激流に呑まれて命を落とされたのは令和元(2019)年5月26日のことである。
Sさんとの付き合いは旧く半世紀に遡昇る。
5歳年上で大変な苦労人であり人生の師であり鮎釣りの名人にして師匠でもあるSさんと僕は何百回も共に釣行し獲物の塩焼きで酒を酌み交わした。何百回もの釣行で、Sさんより僕の釣果が上回ったのは、なんと日高川の支流、寒川での一度のみである。
 常に沈着冷静、世事に明るくバランスのとれたブレの無い判断力の持ち主で尊敬、敬愛する無二の先輩であった。

事故があったのは、 5年前の5月26日、日置川の鮎の解禁当日の午後4時過ぎのことである。中流部の八草の瀬で鮎釣りを楽しんだ後小雨が落ちてきたので
「Sさん、上がりましょうか?」 「ええ仕舞いましょう」
 竿をたたみ、帰り支度が整った。帰路は、川の左岸から右岸に渡り、上流に1kmばかり
き、再度右岸から左岸に渡り林道を20mほど登ると漸く車を駐めた道路に戻る。読者の皆さんにはお分かり難いであろうが、そうしなければ険しい断崖が連なり道路に出るルートの無い箇所である。一足先に川を渡ろうとしたSさんに声を掛けた。
「Sさん! そこはキツ過ぎますよ。緩いところを探しましょう」
「なに!渡ってきた所だから何とかなりますよ」

 4, 5歩踏み出されたSさん、恐怖の面持ちで凍り付き、必死に踏ん張ろうとされるも、一瞬にして足を取られて仰向けに倒れ、あっという間に数m、呆然と見つめる中、みるみる遠ざかって行かれたSさん (見当を付け難いが秒速7,8m ? 時速30km弱か?)
我に返って追いかけるも、河原は大小無数の石ころだらけで躓いてこけるは、浮石に乗って横倒しになるは、で漸く追いついたのは、700m位も川下であった。しかしそこは、激流はとうに過ぎて、続く深さ 3,4mの大きな岩が点在する深場も過ぎて、まるで池のように緩やかではあるが、水深は 8mあるか 10mあるか分からない深淵である。
Sさんは、仰向きの姿勢で手足は動いている。
「Sさん! 頑張って!」
大声で叫んでみたが流れの音が邪魔で届かなかったであろう。Sさんは、その内うつ伏せになって泳ぐように四肢を動かされた。それを見て僕は、助けに行こうとしたが、抱き着かれたら双方ともに溺れると思うと俄かに怖気づいてしまった。しかし躊躇したのもつかの間、顔が水面下に浸かり四肢はだらりと水中に垂れて動きが止まった。

もう一刻の猶予もならない。 夢中で平泳ぎ、バタフライで懸命に近寄り左手で肩を掴み右手と両足で懸命に泳ぐ。ごく緩い流れは右岸に向かっているがそこは切り立った大岩でなすすべはない。左岸は河原が広がっている。左岸に向かい懸命に泳ぐ。川底に白い砂地が見え始めたが未だ背が立たない。さらに10mばかり岸寄りに泳ぎ陸に接近して漸く足が付いた。

Sさんの両の脇に腕を入れてやっとの思いで陸に引っ張り上げることが出来た。意識はなく呼びかけに応えはなく脈も無く心肺停止の状態である。余程水を飲まれたとみえてお腹はスイカのように膨らんでいる。
「Sさん! しっかりして! 」
止め処なく涙が溢れる。助けを借りるにも川の上下流とも見渡す限り人の姿はない。

僕は道に上がって救助を求めることに決め、 Sさん遭難の激流箇所より数10m上を対岸に渡り1km上流に向かって、できる限り急ぎ、さらに右岸に渡って林道を20m上り漸く道に出て下から上がってくる車に合図を送った。奈良ナンバーのワンボクスで鮎釣り3人連れで
「何や!」 「鮎釣りで連れが溺れた。 救急車を頼む」 「よっしゃ!解った」 
僕はSさんの車に急ぎ、携帯を見つけると、ご子息の3男君に事故を知らせた。
「分かりました。すぐにそちらに向かいます」
との返事。救急車を待つ間、協力してくれた3人に遭難の様子を話す。30分余りしてサイレンが響き消防車1台、救急車1台、パトカー1台、消防士5人、救急隊員3人、警官4人が到着。
「遭難者はどこですか?」
 僕は川の遥か向こうに小さく見える黒い点を指さし
「あそこです」 消防士は「うわっ!ここ降りれやんなぁ」
そこは、道の最も高い箇所で河原まで50m ?の切り立った断崖絶壁である。が、流石消防士。消防車に括って投げ下ろしたロープに抱き着くと次々に3人が滑り降りた。すぐに「担架下ろして」と連絡あり。 ロープの付いたプラスティック製のボート型の物が投げ落とされ二本のベルトで固定される。
 「よっしゃ! 上げて」
消防車のウインチがジジイと鳴り、ゆっくりゆっくり巻き上げられる。

即座に救急車で最寄りのすさみ町立病院に搬送。
 (すさみ病院では、対処不能と判り国立白浜病院に転送された) 
そしてそれから、警察官3人に状況説明を要請された。事故現場に近いルートは選べない、何故なら制服姿の警官には川は渡れない。 止む無く遠回りになるが道路を下に向かって2km ほど歩き左岸の河原に降りる。そこから再び 2km河原を上ると事故現場に戻ることが出来る。
「溺れはったのは何処ですか?」 「何時何分でしたか?」 「貴方の取った行動を説明してください」
何枚もの写真を撮られ、 微に入り細に渡っての質問に答えて
「概ね解りました。 もう引き揚げましょう」
来たルート通りに2km下って道に上がり2km歩いて車に戻った時には正に疲労困憊、辺りはすっかり暗くなっていた。

「お疲れのところ済みませんが、調書を取りますので今から白浜警察署までお越し頂きたい。ゆっくり走りますからパトカーの後に付いてください」
 と言われて Sさんの車を運転して小1時間追走したが足が何度も釣りかけて凄く怖い思いをした。1時間に及ぶ状況説明の末、
「結構です。 お疲れ様でした。 お引き取りください。 それとも国立病院へ行かれますか? もうご家族が到着されるようですよ」 「Sさんの容体は?」 「心臓は動いたようです」 「えっ! 生き返られた?」 「いや詳しいことはわかりません」 「ご家族にもお話ししなければ。すぐに参ります。」

 道順を教わり病院に駆けつけた。丁度、長男さん、3男さんと奥さんの3人が担当医から説明を受けられた後であった。3男さんによると 「こちらに来る途中病院から電話で、
「父は蘇生したが意識はない。脳に酸素が2時間も供給されなかったため意識が戻ることは無い。延命措置を継続するか否か聞かれたので、熟慮のうえ中止してもらいました」
とのことであった。
僕は3人のご家族に深く頭を下げてお悔やみを述べ 
「私がご一緒しながらお助けすることが出来なくて真に申し訳ございません。 お詫びの言葉もございません」 「どうかご自分を責めないでください。 中学時代から鮎や山女魚釣りに親しんだ父は、鮎の日置川で昇天することが出来てきっと本望でしょう。」 「それに出羽さんに引き上げてもらわなかったら、 捜索活動はじめ多くの迷惑が掛かるし、父も安眠できなかったと思いますよ」
と僕は慰められた。通夜式、葬儀に参列を許され、 納骨墓参にお付き合いし心からご冥福をお祈りした次第である。
(出羽記、令和6(2024)年1月9日)

      <以上>

     以上>