濱崎(天本)登志子/私の歩いた道

    2019.5.18 アメリカ・ミネソタ州・ロジャーズにて

      ミネソタの息子の家の庭

 こちら(ミネソタ州ロジャーズ)に来てからは、初夏のような日々が続いています。昨日は一日、息子の家でのんびりと本を読んだり、お嫁さんがお花を庭に植えているのを手伝ったり、孫(20才)が大学休みで家にいて庭の芝刈りをしている姿を見たりしながら楽しみました。庭といえどもとても広いので、芝刈り機を動かして、耳にイヤホーンつけて曲を聴きながら家の周りを歩いている姿が日本では見られない様子で、おもしろく見ていました。

裏庭で息子のお嫁さんと。現在は看護師だが、再度大学に入り、乳がん専門の看護師最上位の資格を取るため勉強中。ガンを患っても死に至るまでの心の支えになる、メンタルケアの専門家を目指しています。息子はサラリーマンですが、カメラマンに転身すべく頑張っています。みんなそれぞれに頑張っている姿を見ることが出来てとてもいい旅でした。

 これは私ごとの話ですが、誰にも言ったことがありませんので初めて書きます。

 私は佐賀県のある田舎の地主の娘として生まれました。生まれたのは博多。近くの佐賀県の田舎に、父が昔からの地主で多くの農地を持っていましたが、戦後の農地改革で土地を取り上げられましたが、まだたくさんの家を人に貸している環境にいました。

 ところが私が中学2年の終わりに将来のことを思ってか、母方の実家のある大阪へ、家族(父母と私)は来ました。城東区のすみれ中学に転入しました。中3の担任の先生が追手門高校をすすめて下さって、私はあまり大阪の高校のことがわからず、私立では名門校だとも知らずに入学しました。自分で言うのは恥ずかしいのですが、小中(転校後も)では成績はトップグループに入っていました。追高に入って、1組にいましたが、2年に上がる前頃、わが家の経済状態が悪く、貧乏生活の中にいて大学進学をあきらめようと考えていて、井町先生に「私は1組から除いて下さい。大学に行く人に譲って下さい」と伝えました。そして2年から2組に入りました。

 家が没落して、父の仕事のお給料では学費は無理だろうとひとり悩みました。今なら、アルバイトしたり、奨学金など考えたりして大学へ行けるのでしょうが、その時の私はお嬢さん育ち(?)で、考えられなくて、洋裁の学校へ、デザイナーになりたいと思ってそちらへ進みました。しかし私はやはり洋裁の方は向いていないと思いそこでも悩んだものです。そして洋裁をやめました。

      高校を卒業して直ぐの頃の写真

 祖母がナショナルの松下幸之助さんなんかを茶道で教えているくらい茶道界では知られた方でしたので、茶道の方へまた進みました。
 この時は、大阪鉄道管理局でアルバイトをしながら茶道に励みました。家元から、あと30年勉強すれば立派な茶道家になれますよ、と言われましたが、女性の多い茶道界の裏なども知ってくると、茶道から逃げたいと思ったりしながら迷っていたのです。その頃 F さんともたまに会ったりして、心の中では「初恋かな?」と思ったりして、私がまだ無知な者だったために飛び込んで行くことすら出来ませんでした。若いというのは本当に青く未熟な時です・・・・と今は後悔はありますが、過ぎたことは美しく哀しいものだと分かりました。結婚すればみんな同じだとも悟りました。

 そういった環境が詩を書くことになったのかもしれません。常に詩がそばにあって、たくさんの友達はいましたが、どこか自立していない自分がいました。

私が27才で結婚した人は、芥川龍之介が好きで小説家志望だった文学青年でした。国学院大学の国文科卒で、崎山先生の後輩です。先生が何か古典(万葉集だったかな)の道を旅されていて東京にいらした時にはうちにも来てもらい主人と語り合っていました。崎山先生にはとてもお世話になりました。良い就職口を勧めて下さったのに、私は「行きません」と冷たく言ったりしたこともあります。私が結婚して子どもが出来たことをお伝えしたときは、「あなたが結婚して子どもができるなんて信じられない」と喜んでお便りを頂いたことを今でもよく覚えています。

3年生の新聞部員がクリスマスに、鴻池新田の崎山先生のご自宅ですきやきをご馳走になった

 この主人に出会えたことは、本当に幸せでした。夢ばかり追っかけていた文学少女の私には、貧乏でも、全然気にしていませんでした。苦労が足りなくて、夢ばかり見ているような無知な私でした。文学好きがとりもつ結婚でしたから、小説家には成れなかったけど、心の底を流れるものが一緒でした。
 そんな主人でしたが、その主人の7年間の介護中に私はうつ病になってしまいました。37kgまでやせてしまい、眠れない・食べれない・字が書けないといった状況になりつらかったです。子供たち二人(息子と娘)は遠くにいるし、一人でがんばりすぎました。心療内科も受診しました。横断道の前で、今飛び込んだら!?と何度か思ったこともありましたが、やはりふと我に返って、ダメダメ主人は私しか介護する人がいない・・、子どもの顔がパッと浮かんでくる、そんなこともありました。
 そして思い直して自己啓発のような本や禅の本やあらゆる自分をふるいたたせてくれる本を200冊以上読みあさりました。座禅に通ったり、お坊さんのお話を聞きに行ったりいろんなことで自分をふるいたたせてきて、主人が亡くなる時にはちゃんと自立出来ていました。足元がしっかりしてきて一人でもやっていくことが出来るようになりました。それからはただ勇気と感謝あるのみで、今アメリカまでひとり旅できるようになりました。この年になって好奇心も出て、何でも見て、何でも触って、誰とも仲良くなって、自由を得てとても楽しい暮らしが出来るようになりました。

  左はミシシッピ川

 すべてに感謝して生きています。そして勇気をもって一歩前に出る・・・・。青春が戻ってきたのかしら?

 去年は九州まで二度もひとり旅をして、自分のルーツを探しに出かけました。これからもひとり旅は続けます。ひとりで見るものはたしかに美しく感動しています。なんにでも興味をもち、もう私しかいないのですから自分の個性を出しながら自分らしく生きていきたいと強く思っています。

 今、アメリカの息子の家で夜、これを書いています。息子が「たくさん書いているんだね」とそばで言っています。詩も今も書いていて、自宅近くの小さな新聞に毎月一回、詩をのせていただいています。みんなが楽しみに読んでくれているそうなのがうれしいです。

        2018年に出版した詩集

 時間が遅くなりましたのでこれでやめておきますね。突然、長いお手紙を書いてびっくりされたでしょうね。これももしかしたら異国に来て、旅の途中にいるから書けたのかもしれません。それから私たちも人生の最後にきていますから、どこかで私のことを知ってほしい、と思ったのかもしれません。お許し下さい。

 では、おやすみなさい。 2019.5/18 ミネソタ息子宅にて はまさき とし子